鷹の掲載句
主宰の今月の12句
今月の鷹誌から
推薦30句
雨に背を黒くテカらせ蟇交む
春潮に一身立てて女たり
涅槃図の奥へ奥へと膝送り
ジャニス・ジョプリン吊革握り聴く暮春
ウイルスに我が宿貸さじ春炬燵
春暁の布団の上の手を握る
自転車の鍵雛壇の端にある
股にタオル垂らし湯殿へ春の暮
夏掛の子の寝姿はさあ殺せ
上げし顔スマホに戻す春の雷
ぶつかりて片方残るシャボン玉
膝抱きて小さき塊春ゆふべ
セーターの萌袖に拭く眼鏡かな
ミモザ挿す国際女性デーの胸
花冷やつま先縢るトウシューズ
奥坂 まや
岩永 佐保
加藤 静夫
川原 風人
山下 桐子
竹岡 一郎
荒木 かず枝
南 十二国
長谷 静寛
羽村 良宜
鈴木 之之
安食 美津子
伊藤 ゲンソウ
西條 裕子
加納 洋子
うららかや物干のシャツ肩を組み
捨てに出づ鍋一杯の蜆殻
大空へぶらんこの子を押し出せり
冬晴の階段ふいに子ども欲し
徳川の世を知る欅芽吹きけり
寝ね
山城へ羊腸の道藤咲けり
めんこ打つ利き手の高き遅日かな
鈴を振るやうに咲き出す桜かな
ネームバンド切つて退院桃の花
老画家の絶筆鷹は谷越ゆる
夕暮の黒板広し鳥帰る
アトリエの椅子にモデルの春の服
コッペパンほどな仔猫に嚙まれけり
戒名は一人に一つ母子草
田上 比呂美
安食 亨子
中野 こと子
柏倉 健介
佐野 明美
加藤 征子
野尻 寿康
菊池 ひろ子
崎 沙鶸
井上 茅
三浦 美苗
柴田 るり子
柳田 知香
牧野 紫陽花
城戸 トシ子
秀句の風景 小川軽舟
ぶつかりて片方残るシャボン玉 鈴木 之之
当たり前の事実のようにも見えるし、巧妙な嘘のようにも思える。シャボン玉の飛ぶ様子を思い出してみても、どちらかわからない。何度となく見てはいても、この句のようには見ていないからだ。その隙を突いてこの句の写生は成り立っている。写生は事実を写し取るだけのものではない。虚実の間に遊んでも、そこで作者の写したものが読者の脳裏にはっきり像を結べば、それもまた写生なのだと思う。言葉による写生にはそれが可能なのである。
ともあれこの句において、二つのシャボン玉がぶつかり、一つは割れて、一つは残った。それがはっきり見える。割れたシャボン玉の儚さ、割れずに残ったシャボン玉の図々しさ。しかし、残ったシャボン玉も間もなく割れて消える。社会の寓意のようにも見える写生である。
セーターの萌袖に拭く眼鏡かな 伊藤 ゲンソウ
大きめのニットを着て、手が隠れるほど袖が長いのを「萌袖」と言う。長過ぎてもいけない。袖の先から指先が見えるくらいがちょうどよい。女子高生のそんな恰好が可愛らしいというところから生まれた言葉のようだ。
新しい風俗に疎い私は、ゲンソウさんの俳句を理解するためにインターネットで検索するのが常である。辞書を引いたって「萌袖」は出て来ない。ところがネットで検索すると、それはもうありふれた常識であるらしい。ゲンソウさんはそのタイムラグを俳句で攻めるのである。芭蕉は「俳諧の益は俗語を正す也」と説いて俗語による詩を目指した。ゲンソウさんもまた「俗語を正す」を実践しているようなのだ。
ウイルスに我が宿貸さじ春炬燵 山下 桐子
新型コロナウイルスに感染するまいと、春になっても家に籠って炬燵にあたっている。この句の「我が宿」とは自分の体のことだろう。つまり「我が宿貸さじ」は、私の体には這い入らせてなるものか、ということ。それが操を守る覚悟に聞こえるのがおかしい。
ネームバンド切つて退院桃の花 井上 茅
退院の句が多い。ある程度は「鷹」に載せているが、似たような切口の句が多くて厳しく見ると採れない。それでもこの句を見ると、まだまだ新しい切口はあるのだと気づかされる。視野にあるのに俳句の素材に見えていないのだ。
ネームバンドは医師や看護師が入院患者を誤認しないために付けさせられるもの。自分の存在はネームバンドで識別される患者でしかない。そのネームバンドを切って、ようやく一人の人格に戻れる気がする。その晴れ晴れした気分に桃の花がよく似合う。
コッペパンほどな仔猫に嚙まれけり 牧野 紫陽花
柔らかさと言い、持ち重りと言い、掌に乗る大きさと言い、ちょうどコッペパンほどの仔猫なのである。言われてみればその通りだが、誰でも仔猫からコッペパンを連想できるわけではない。かなりの距離を軽々と飛び越えて見せたのがこの句の楽しさ。しかもコッペパンを想像させておいて、それが嚙んだと言う。そこでまた意表を突かれる。読者を振り回す手管が痛快だ。
上げし顔スマホに戻す春の雷 羽村 良宜
春雷に驚いて上げた顔を、しばらくしてスマホの画面に戻す。時間の経過を持ち込まず瞬間を詠めとか、原因と結果の因果関係を持ち込むなとか、句会の指導ではよく繰り返されることだが、この句はその両方に違反しながら、それが弱点になっていない。わずかに揺らいだ日常が、また元の日常に戻る。それを自然に描いた表現に余計な構えがないのだ。
膝抱きて小さき塊春ゆふべ 安食 美津子
「小さき塊」が潔い表現である。自分の膝を抱いてみたら、自分自身が一つの小さな塊に過ぎないと感じられたのだ。春の夕べの寂しさの中で、押せばころんと転がりそうな心許ない存在。春愁というものをその言葉に頼らず自分の感覚を頼りに突き詰めたらこの句になったのだろう。
めんこ打つ利き手の高き遅日かな 菊池 ひろ子
地べたにある相手のめんこを睨みつける顔は動かさず、体をねじり利き手を高々と上げて狙いを定める。その一瞬の静止を捉えて鮮やかである。「利き手の高き」が子どもの頃に見たその一瞬を甦らせるのだ。季語の遅日が記憶の時間の奥行きを感じさせる。
股にタオル垂らし湯殿へ春の暮 南 十二国
十二国俳句の女性ファンが思わず目を背けそうな内容なのが愉快である。四十歳になって一皮剝けたというところか。それでもやはりこの含羞を帯びた朗らかさは十二国さん独特のものだ。春の暮の取り合わせは、これが青春の終わりを表わしていると読めなくもない。