鷹の掲載句

主宰の今月の12句

ソファー選ぶやうに余生へ春夕焼

ガレージに雨の匂へりこどもの日

せせらぎのごとく夜の雲槻若葉

怺へゐし牡丹はたりとくづほれし

枇杷食ふに刃物は要らず指たのし

枇杷の種からんと仮寓さびしくす

梅雨寒し暗渠に川のくくみ声

梅雨濤に磐根轟き心

下船して駅まで歩く薄暑かな

トロ箱に氷ぶちまけ青葉潮

かきつばた軍記に馬蹄鳴り響く

大皿に松風吹けり初鰹

(「俳壇」六月号掲載句を含む)

今月の鷹誌から

推薦30句

何時の間に鶯餅の向かう向き       

初めから知つてゐたはず蝌蚪に足     

泥濘に落暉ぎらつく信長忌        

空海忌墨書ほむらの如くあり       

白湯吹いて口許さびし松の芯       

蝙蝠や風のしよつぱい新開地       

天日の燁然とあり種浸し         

鶏合杉山に風にごりけり         

新社員スーツに体すなほなり       

遠蛙常の布団に父逝けり         

怒りありレタスをちぎるその手さへ    

読まれざる詩歌はやがて囀に       

椿寿忌の日差しは谷戸を移りけり     

雨音の憑きたる鬱金桜かな        

冠木門袖のからたち咲きにけり      

細谷 ふみを

三代 寿美代

天地 わたる

竹岡 一郎

中山 玄彦

本橋 洋子

橘田 麻伊

鶴岡 行馬

日向野 初枝

吉長 道代

大野 晴真

栗原 修二

砂金 祐年

斎藤 夏野

長谷川 野蒜

ぱつぱつの化粧ポーチや新社員      

夕影の都電は車庫へ桜まじ        

春暑しびやんびやん伸ばす中華麺     

花散るやビニール傘にはづむ雨      

ハンカチの花や風ある薄曇        

武蔵野の土は黒ぼこほととぎす      

山里に住む人絶えし波波迦かな      

旧道の高みより富士木の芽晴       

飛花落花夢ばつか口ばつか馬鹿      

不合格告ぐる礼状木の芽雨        

げんげ田をたちまちうなふ耕運機    

軽鳧の子に夜明近づく水の綾       

守一の猫に寝息やあたたかし       

緑立つ蓮如の寺の藁庇          

薫風や正午のニュース五分前       

佐藤 栄利子

たなか 礼

氣多 驚子

岡沢 紀子

齋藤 伸

中西 常夫

山下 桐子

福田 周子

柳川 夢の二

青塚 波音

内田 ひろし

中村 みき子

太田 淳子

石原 由貴子

田中 和子

秀句の風景 小川軽舟

何時の間に鶯餅の向かう向き        細谷 ふみを

 このように季語でさらりと遊ぶ上手さは細谷さんならではのものだ。湘子選の時代、「ブランコが二つ水たまりが一つ」(昭62・6)、「鉄線の花のどれかが廻りさう」(昭62・11)といった細谷さんの句が選評に取り上げられ、鷹に入会したての初心者だった私は大いに感じ入った。
 鶯餅は色や形を鶯に似せていると言うが、けっしてリアルに似せてはいない。両端を軽く抓んであるのが嘴と尾羽かと思えど、どちらがどちらかわからない。だからこの句はおもしろいのである。鶯餅がもっと鶯らしかったら、この句は嘘が見え透く。こっちを向いていると思っていた鶯餅が、ふと気づくと向こうを向いている。それは気のせいなのだけれど確かにそう思う。この句は嘘をついていない。鶯餅らしさを見事に突いて巧妙に表現された写生なのである。

天日の燁然とあり種浸し  橘田 麻伊

 この句のいのちは何と言っても「燁然」にある。漢語が一句に格調をもたらす効果を目の当たりにするようだ。あまり使われない言葉だが、火のように光り輝くことを言う。私は「燁」の字を柳原白蓮の本名燁子で覚えていた。この句を読む上で、私にはあるいはそのこともプラスに作用しているかもしれない。天上では日が燃えさかり、地上では種が水に浸される。その対比も鮮やかだと思う。

読まれざる詩歌はやがて囀に        栗原 修二

 俳句もその一ジャンルだが、毎日たくさんの詩歌が生まれる。しかし、古典として残るのはほんの一握り、大半はその一握りを育む水や空気のように、やがて存在すら忘れられる。森でさまざまな囀りに耳を傾けつつ、作者は掲句のように思う。なんという優しさだろう。その優しさは自分自身に対する慰めでもある。詩人という特別な人間が詩歌を創るのではなく、国民誰もがたやすく詩歌を詠む。この国の詩歌のあり方(「第二芸術」を書いた桑原武夫はそれが何より不満だった)を言祝ぐ句だと思う。

蝙蝠や風のしよつぱい新開地       本橋 洋子

 新開地とは新しく開かれた土地。地名に残るものでは神戸の新開地が有名だが、全国各地に同様の新開地は存在する。都市に人口が流れ込むとともに、その欲望を満たす歓楽街として市街地の周縁に勃興し賑わったそれら新開地も、今はほとんどが寂れている。夕方になると蝙蝠が飛び交い、港からしょっぱい風が吹き抜ける。それは新開地に生きた人々の哀歓の入り混じったしょっぱさでもあるだろう。

遠蛙常の布団に父逝けり          吉長 道代

 「常の布団に」がよい。自分の家で死んだのだ。病院で死ぬのでも、出先で不慮の死に遭うのでもなく、いつも敷く自分の布団で死んだ。布団だからもちろん畳の上。「畳の上で死ぬ」という決まり文句を、看取る者の優しさで見直したらこの句になった。近頃届く訃報の死因はもっぱら病名か心不全だ。この句の父にはなかなか見かけぬ老衰が相応しい。すなわち大往生である。

旧道の高みより富士木の芽晴        福田 周子

 急勾配のヘアピンカーブを繰り返して高い峠を越える道なのだ。その峠をトンネルで一気に抜ける新道ができてからは、通る車もめっきり減った。作者はわざわざその旧道を使ったのである。トンネルならあっという間なのに、旧道は時間のかかる難路。芽吹いた林の中を蜿蜒と登ると、褒美のように峠から富士山が見えた。このような新道と旧道は山がちのわが国では到るところにある。それをこのような形で一句に示し得たことが新鮮だ。

不合格告ぐる礼状木の芽雨         青塚 波音

 大学受験か、資格試験か。受験までの間、何かと世話を焼き、励ましてくれた相手なのだろう。望む結果は出せなかったが、感謝の気持ちはきちんと伝えたい。「不合格告ぐる礼状」はそのような事情を簡潔に示して味わい深い。俳句に人情を持ち込むと常識になりやすい。常識は詩とは縁遠いものだ。しかし、この句には詩情がある。季語もよいのだろう。試験だけが人生ではない。今はつらいが、やがてよいこともあるだろう、そう思わせるあたたかみがある。

飛花落花夢ばつか口ばつか馬鹿       柳川 夢の二

 脚韻と言うのだろうか、「か」で終わる言葉を連発した語勢にまず驚く。夢ばかり追い、口ばかり達者で、実行を伴わない。そんな奴に投げつけた「馬鹿」には幾許かの愛情が感じられないでもない。愛想が尽きても放り出せない。もしかするとそれは自分自身なのかもしれない。
 「飛花落花」は俳句でよく見かけるようになったが、飛花落葉をもじったものか、いつ誰が使い始めたのか知らない。使われ過ぎてもはや新味もないが、この句は「夢ばつか口ばつか馬鹿」の恰好の助走として役立っている。