鷹の掲載句

主宰の今月の12句

終りなく

山中に日ざしさまよふ時雨かな

古女房炬燵寝によき夢を見る

炬燵寝にのぼせても鼻つめたしよ

湯豆腐やアルミの小鍋すぐ煮立つ

踏み跡にまた雪積もる稲荷かな

冬萌や首掻く犬の後ろ足

まだ詰まる着ぶくれ電車まだ詰まる

落葉踏みさびしさ積もる耳の底

冬霧にヘッドライトと憎しみと

羚羊の毛の突つ立ちて雨しぶく

壁炉の火からまつ暮れし窓に映ゆ

終りなく雪こみあげる夜空かな

今月の鷹誌から

推薦30句

一月に始まる虚子の季寄せかな      

影連れ立つ相談室の寒灯に        

阿夫利嶺の竜神に汲む寒の水       

部屋にゐて世界見通す寒さかな      

越屋根の垂氷に山の朝日かな       

文化祭張りぼて焼べて了りけり      

落鷹の声や夕づく棚田道         

冬空に渇筆の雲濃く淡く         

艦載機ひしめく空母冬の虹        

旅したし雪降る街に眠りたし       

葱刻むなんの淋しいことのある      

用あらば魚板叩けと雪囲         

東京が恋し雀と日向ぼこ         

山眠る山窩は何を祈りしか        

冬怒濤空電のなか島応ふ         

山本 良明

川原 風人

大石 香代子

高柳 克弘

宮木 登美江

宮本 素子

古屋 德男

鈴木 みどり

佐野 未來

竹岡 佐緒理

茂木 とみお

小林 環

芝崎 芙美子

六花 六兎

筒井 龍尾

ぼろ市の一生物と言ふ鋏         

彫り深き夕べの山や納め弥撒       

雪しんしん絵本の中に眠る吾子      

裸木に天は深きを以て応ふ        

冬もみぢ調度簡素に永らへり       

熊出づる記事の他なき故郷かな      

マフラーやチェーホフかかる俳優座    

鵙の贄荒野の全て乾き切る        

年の夜や衣桁に掛かる辻が花       

時雨るるやサウナ帰りの肌熱し      

家族とは船か港か晦日蕎麦        

レノン忌の夜なる自由の女神かな     

切なさは本気の証毛糸編む        

雪降れり自動ピアノの曲変はる      

山茶花や月光白く峡の底         

林田 美音

保高 公子

坂巻 恭子

穴澤 篤子

岡本 泉

吉松 勲

寺島 きしを

宮島 杜子

小林 陽子

小泉 染生

橋本 雪香

小島 月彦

小泉 裕子

野手 花子

山本 佐惠美

秀句の風景 小川軽舟

影連れ立つ相談室の寒灯に         川原 風人

 川原君が教師としての日常を詠んだ句を出してきた記憶があまりない。それだけに今回の投句が興味深かった。新しい句材の鉱脈として、自分が毎日立つ足もとを掘り始めたらしい。「母に捨てられし生徒と落葉搔く」はドラマの一場面のようで私にも理解できるが、「さみしさに金欲しがる子夕時雨」となると今の生徒のなまなましい現実を突きつけられてたじろぐ。教育現場にはその時代の社会のありようが濃く映し出される。その中で教師の負担がもはや限界と言われるところまで増していることもしばしば耳にする。
 掲句はそのような学校を舞台とするある晩の情景である。先の二句と違って何の事情も述べず、連れ立つ影だけを示したことで、読者の想像をかき立てる句になった。その分、俳句として訴える力がいちばん強いようだ。

冬空に渇筆の雲濃く淡く          鈴木 みどり

 墨のかすれを厭わず筆で勢いよく書き付けたような雲なのだ。あるいは濃く、あるいは薄く、作者の住むパリの空に変幻する雲。渇筆の見立てが自然描写として目新しいが、「十字架に下界見限る寒鴉をり」と併せ読めば、空の様子がさらに寒々と見えてくる。「渇」の一字がその雲の下に暮らす人々の心の渇きをも感じさせる。鴉にも見限られた下界は、折しも新型コロナウイルスの猛威に喘いでいる。

冬怒濤空電のなか島応ふ          筒井 龍尾

 寒気団が押し寄せ、雷を伴う悪天候となった。空電は雷の放電により発生する電波で無線通信を妨害する。島との連絡がしばらく途絶したのだ。その島の役場から雑音に混じってようやく応答があった。島が応えたとした表現がよい。暴風雪に耐える島民を乗せて大荒れの海に今にも漂流しそうな島の緊張感が伝わるのである。

越屋根の垂氷に山の朝日かな        宮木 登美江

 越屋根をいちばんイメージしやすいのは養蚕農家だろう。一階に人が暮らし、二階で蚕を飼う。その二階の採光や換気のために屋根の上に一段高く小さな屋根を設ける。それが越屋根である。この句の越屋根も幾星霜を経た堂々たる古民家のものに違いない。越屋根の軒の氷柱がいち早く山の朝日を受けた。いわゆる日本の原風景、その歴史の奥行きを感じさせる「垂氷」の用語も効果的だ。

葱刻むなんの淋しいことのある       茂木 とみお

 「なんの淋しいことのある」は反語表現である。年配の男が自分で葱を刻む。淋しくはないか、という声が聞こえる。なんの淋しいことがあろう、淋しくなんかない、というわけだ。けれどもやっぱり淋しいのではないか。強がりのような反語でもあるのだ。

家族とは船か港か晦日蕎麦         橋本 雪香

 家族とは何かを考える句は私もいくつか作ってきたが、この句の「船か港か」はうまいことを言ったものだと思った。一つの船として海へ漕ぎ出すのも家族なら、港として家族の一人一人を迎え入れるのもまた家族だ。そんなことを思っているとは噯にも出さず、年越の蕎麦をうまそうに啜る家族の顔を眺めやる。

山眠る山窩は何を祈りしか         六花 六兎

  山窩は近代まで日本に存在した漂泊の民である。定住せずに山中で暮らし、狩猟採集の他、箕などを売って生計を立てていたという。作者は山中に山窩の信仰の跡とされるものを訪ねたか。放浪の日々に彼らは何を祈って生きたのだろう。小説の題材として好奇の目にさらされたり、官憲から犯罪者集団と見なされたりして、実態を正しく知るのが難しい山窩だが、作者の心は同じ人間である彼らに直に呼びかけようとしているのだ。

雪降れり自動ピアノの曲変はる       野手 花子

 心地よいざわめきに満ちたホテルのラウンジ。窓の外は雪景色である。一隅で自動ピアノが曲を奏でている。軽快なダンス音楽から一転してバラードに。それとともに作者の心もふと陰翳を帯びる。次の瞬間には我に還って会話に戻る。自分のことなど何も言っていないのに、この句には作者の心の動きをはっきり感じることができる。

一月に始まる虚子の季寄せかな       山本 良明

 大方の歳時記が春、夏、秋、冬、新年の章立てになっているのに対して、高浜虚子が昭和九年に編んだ『新歳時記』とそれを簡略化した『季寄せ』は、一月から始まる月別の章立てになっている。季寄せとともに句作にいそしんだ一年が終ると、また季寄せの最初のページに戻る。その最初の季語が「一月」。良明さんの長い句歴は「ホトトギス」系の「九年母」に始まる。それから七十年近く、虚子の季寄せとともに年を重ねてきたことが尊くうらやましく思われる。