鷹の掲載句

主宰の今月の12句

デカフェ

書き物に夕日差したり秋簾

横浜の古きホテルの秋思かな

顔見えず秋海棠にかがみをり

汀女忌の玉子の薄きオムライス

色鳥や生垣低き保育園

足跡に松葉平らや茸狩

わらわらと滑子掻きとる朽木かな

あけび甘し山の空気のすぐ冷ゆる

明け方の彩雲広し牧閉す

菊人形衿の白きは小菊もて

珈琲はデカフェ夜長の窓あけて

割るるとき力をゆるめ胡桃割る

今月の鷹誌から

推薦30句

月光に鎖鳴らして象老いぬ   

ローマ字を読めば日本語いわし雲

新涼やフードコートの老夫婦

有史より先史明るき木の実かな

書き置きに二十世紀が乗つてをり 

通はねば忘るる道や稲の花

ひと仕事終へし案山子や畦枕

裸のまま煙草吸ふ時だけ男

石鎧ふ最高裁の西日かな 

暗澹と秋果の照や山月記

秋の蝶ガラスのビルに弾かれし 

校庭に教室の椅子運動会 

大勢と見てゐてひとり大文字 

拓く地に朝晩のあり秋の家

夕月にパパイヤ青し鳳作忌  

奥坂 まや

折勝 家鴨

羽田 容子

桐山 太志

春木 燿子

柳浦 博美

吉松 勲

大野 潤治

伊藤 衒叟

川原 風人

山田 友樹

竹岡 佐緒理

永井 唯

河西 茂

坂巻 恭子

塵芥車陸続夢の島秋暑

郭公や風あるうちの朝仕事 

ひとり身の子の行末やいわし雲  

万巻を読み月光に狂ひたる

電線はみな自由席小鳥来る

敬老の日や曽我物の児童劇 

片方は小鳥の映る義眼なり

新幹線通勤圏やそばの花 

月光に峙つ奥嶺蕎麦の花

秋晴を自分のことに使ひけり

水中花つま先立ちて咲きにけり

一瞬の水の形や水を打つ 

丈六の供華に紫苑を剪りにけり

豊年や笊引つ掛ける釘を打つ  

軒下に雨月の傘を畳みたる

百橋 美子

奥山 古奈美

矢島 広

藤山 直樹

星 ひで子

鳥海 壮六

山本 絲人

中村 恵理子

保高 公子

牧野 紫陽花

藤江 みち

加藤 香流

島田 星花

長岡 美帆

杉谷 たえ

秀句の風景 小川軽舟

通はねば忘るる道や稲の花   柳浦 博美

 行き先を入力すれば現在地と経路がスマホに表示される時代に、古風な感じのする句である。便利な世の中になっても、人の心は変わらない。通うからこそ、そこに道はあったのだ。これは忘れまいとする句だとも、あるいは忘れることを肯う句だとも読める。恋の句だと限定する必要はないが、その気分は濃厚だ。
 なぜ稲の花なのか。田んぼの中を通うのか。この稲の花は具体的な情景を示すものというより、先行句が汲み上げてきた稲の花の情緒を引き寄せようとするものなのだろう。
 「鷹」に例を求めれば、
 うすうすと稲の花さく黄泉の道      飯島 晴子
 稲の花夢のとほりの道に出し       中嶋 夕貴
 死はいつか乗る観覧車稲の花       細谷ふみを
があり、外に目を転じれば平成の名句として知られる
 空へゆく階段のなし稲の花        田中 裕明
がある。現実感がそこだけ希薄になるような不思議さが稲の花にはあるようだ。ひっそりと籾を開いて風を待ち、受粉が済めば閉じてしまうその花には、掲句のもう通うことのない道に似合うあわれもある。

敬老の日や曽我物の児童劇 鳥海 壮六

 鳥海さんが住むのは小田原の曽我梅林も近い曽我兄弟ゆかりの地である。そこで地元の小学生が曽我物を劇に仕立てて敬老の日に披露した。観客はもちろん老人たち。作者もその一人として拍手喝采を送ったのだろう。
 中央例会に投句されたのは、「曽我物を継ぐ児童劇敬老日」だった。材料は悪くないが表現がすっきりしない。○はつけられず、添削もできなかったが、鳥海さんは発奮して直してきた。見事な推敲である。言葉を並べ替えるだけでこんなに明快になるのだ。「継ぐ」を削ったことも勝因。無用の用言を削る大切さを、この句に学んでほしい。

新涼やフードコートの老夫婦  羽田 容子

 郊外のショッピングモールのフードコートを想像する。セルフサービスの飲食店が屋台のように並び、盆を持って席に向かう客が行き交う。小さな子供のいる家族連れが多くてかなり騒々しい。その一隅で老夫婦が静かに食事をとっているらしい。地方都市の高齢化の著しい昨今、フードコートも老人が増えていることだろう。好きなものが気軽に食べられ、長居しても咎められない。老夫婦にも悪くない場所だ。
 関西の風光を情緒たっぷりに詠む羽田さんの作品はかねて完成度が高かった。今月の「画舫ゆく淡海のつるべ落しかな」などいかにも羽田さんらしい。しかし、そこには羽田さんの生身の姿を見出しにくかった。変化が兆したのは、終の住処にと今の家に引っ越してから。その変化を励ましたい。掲句は新涼の気分に満たされた作者自身の姿なのだ。

ローマ字を読めば日本語いわし雲  折勝 家鴨

 今月の家鴨作品はゴビ砂漠の旅吟らしいから、この句もその旅での偶感なのだろう。外国の文字なのに読めば日本語になる不思議。加藤楸邨がシベリアからシルクロードへの旅で詠んだ「日本語をはなれし蝶のハヒフヘホ」には、ふだんは空気のように存在した日本語が異国で希薄化してしまう感じが出ているが、掲句にはそのような状態で思いがけず日本語に再会したなつかしさがこみあげてくるようだ。

月光に峙つ奥嶺蕎麦の花 保高 公子

 夢か幻かと思わせる美しい風景である。長年信州に暮らして眺めてきた風景が心に沈殿し、その上澄みを掬い取ったかのようだ。一際高く聳える奥嶺の岩峰が月に輝いている。そして眼前に広がる蕎麦の花も月光に白く照り映えている。

裸のまま煙草吸ふ時だけ男  大野 潤治

 男女の情交の後の情景である。横たわった女の傍らで、半身を起こして煙草を吸う。その時だけ男であることを実感できたのである。「だけ」と言うところに、そうでないふだんの様子が想像される。こんな裸は季語本来の裸ではないと言う向きもあるかもしれない。しかし、裸が季語だからこそ、この句は夏のどこかけだるい場面として味わえる。