鷹の掲載句

主宰の今月の12句

アジアの雨

耳たぶを小さく飾り暑に対す

ナイターの光線に雨濛々と

台詞なき通行人の扇子かな

簡単に片づく部屋の風涼し

白光に陰影のなし広島忌

畦々に るんですよ曼珠沙華

大阪にアジアの雨や南瓜煮る

蜉蝣や京に逢ひしは夏のこと

送行の典座も国へ帰りけり

月明に竹伐るならば折烏帽子

伐る竹を利休と選ぶ小姓かな

紺に暮れ紫に明け雁の水

今月の鷹誌から

推薦30句

音が音ひしぐ や西日射す

夕立に渋谷のしゆんとなりにけり

雨のよさ言ひあひ初夏の林行く 

レース編むしづかな影を傍らに

梅雨明の縁側に母暮れにけり

単衣着て草の如くに吹かれをり

幼子に山より高き鯉幟

見つけたるかくれんぼの子茗荷の子

香水のきつい上司に代はりけり

庭師来て庭を涼しくしてゆけり

告げられし余命首振り扇風機

さくらんぼ妻ふけさせてしまひけり

万緑や早瀬にかかる艪のきしみ

登山バス喘ぐ樹相の変りつつ

駅裏はアジアの匂ひ梅雨の月

奥坂 まや

清水 右子

南 十二国

安食 亨子

竹岡 一郎

永島 靖子

関 都

澤村 五風

大野 潤治

亀田 紀代子

佐野 忠男

木原 登

氣多 驚子

菊澤 秋水

渡辺 小枝子

妻の死を思ひ切る夜の蛍かな

雁風呂や長子戻りし蜑の家

さるすべり古女房の怒り美し

頼もしき白物家電夏旺ん 

氷菓融く天安門の白日に

蝌蚪の紐おのが重さにちぎれけり

夏霧の父を思へり火を見ては

砂こぼるるやうに帰省の時は過ぐ

炎暑なり物溜める母捨つる我

子供らの素早き素手や雨蛙

故郷の山が四股名の浴衣かな

昼寝覚カレーが食へと匂ひけり

施設へと引越す婆の落し文

アリバイの一角くづる冷奴

独り身の事情それぞれ揚花火

坂口 銀海

高松 武雄

内田 ひろし

井原 悟美

吉村 東甫

加茂 樹

川原 風人

喜納 とし子

石井 果芳

岸上 福市

瀬下 坐髙

藤咲 光正

金本 三千子

山田 東龍子

立川 純子

秀句の風景 小川軽舟

夕立に渋谷のしゆんとなりにけり 清水 右子

 渋谷は現代の東京の風俗と文化を体現する街として賑わっている。一月号の巻頭句、山田友樹君の「色のなき風と渋谷のグラフィティー」は、そんな渋谷の片隅を青春の憂いとともに詠ったものだった。それに対して掲句は、渋谷駅前からセンター街にかけて、とりわけスクランブル交差点の賑わいを思い起こさせる。大勢の人々が各々の目指す方向へ互いにすり抜けるように行き交う。その光景が凄いというので外国人旅行者の観光スポットにもなっているそうだ。ハロウィーンの時の暴動めいた騒ぎでも有名になった。
 真夏の炎天下でも人の波は減ることなく、街そのものが放熱するようだ。そこに夕立がやって来る。慌てて建物の中に逃げ込む人。濡れそぼって歩く人。さっきまでのギラギラが一瞬で消えて、街はまさに「しゆんと」なった。「しゆんと」は渋谷そのものの擬人化だが、オノマトペとしての感覚も冴えていて、機知的に見立てたという嫌味がない。右子さんらしいユニークな表現だと思う。

見つけたるかくれんぼの子茗荷の子 澤村 五風

 茗荷の子は正しくは茗荷の花穂である。藪のように茂った茗荷の根元をかき分けると、土からちょこんと顔を出している。見つかってきまり悪そうにしているかくれんぼの子供のようだ。掲句の着眼はそういうことだろう。しかし、比喩で叙しては、この句の味は消えてしまう気がする。「見つけたるかくれんぼの子」と「茗荷の子」が、お呪いのような調べでただ並んでいるだけだからこそおもしろいのである。まず藪の中で見つかった子供のイメージ、続けて茗荷の子のイメージ。その両方がモンタージュのように頭の中で重なり刺激しあう。意味でつなげることを排してこそ、俳句という詩の持ち味を引き出すことができる。

レース編むしづかな影を傍らに 安食 亨子

 「しづかな影」は自分の影ではあるまい。話しかけてくるでもなくそこに佇む人影である。その具体的な解釈には幅がありそうだ。そこにいるのが当たり前でことさら意識することもない相手と読むこともできる。年をとった夫婦ならそんな安らかさも似合う。もはやこの世にいない人とも読める。ずっと傍にいた人だから、今も「しづかな影」になって傍らにいると感じるのだ。「レース編む」の涼やかさをどう受け止めるか。私は後のほうの解釈に心惹かれる。

庭師来て庭を涼しくしてゆけり 亀田 紀代子

 庭木が茂って鬱蒼とし始めた庭に庭師を入れた。「庭を涼しくしてゆけり」が端的で味わいのある表現だ。まず、家から眺める見た目が涼しげになった。そして、庭から家の中へ風も通るようになった。掲句は庭を描いただけでなく、庭とともにある家の暮らしぶりも描いているのだ。その涼しさが快い。

故郷の山が四股名の浴衣かな 瀬下 坐髙

 「故郷の山が四股名」までは常識の範囲内だろう。常識は詩になりにくい。しかし、そこに「浴衣かな」がついて俳句になった。ものを出すことによって、常識が写生になった。力士はそれぞれ四股名入りの浴衣をあつらえる。浴衣に染められた四股名に故郷の誇りが感じられる。俳句になるとはどういうことか。この句はその好例の一つと言えよう。

砂こぼるるやうに帰省の時は過ぐ 喜納 とし子

 田舎の実家に帰省する。あるいは、わが家を巣立った子が家族を連れてやって来る。休暇の日数は限られているから、帰省の時間はどこかあわただしく、瞬く間に過ぎていく。砂がこぼれるようにとは、その時間の速さの喩えである。しかし、それだけでない寂しさがある。帰省の時間が過ぎ去ることの寂しさ、そして、帰省というものが、毎年繰り返されながら、永久には続かないという予感の寂しさである。

登山バス喘ぐ樹相の変りつつ 菊澤 秋水

 ヘアピンカーブが続き、バスがエンジンを唸らせて登っていく。「喘ぐ」が坂道の急勾配を納得させる。ずいぶん標高が上がってきたな、車窓から見える樹林の様子からそう実感する。ちょうど落葉樹林から針葉樹林に切り替わるあたりだろう。落葉松や白檜曾の樹林に地上から見れば雲なのであろう霧がかかる。バスを降りたときの、ひんやりした山の空気が想像されて、おのずと気分も高まる。

施設へと引越す婆の落し文 金本 三千子

 作者に失礼にならなければよいが、この婆は作者自身だと読みたい。住み慣れた家を離れて老人施設に引越すのだ。庭の柏にオトシブミが卵を産みに来る頃。見ればその根元に、巻かれた葉がいくつも転がっている。これはわが家に私の残す落し文なんだよ、という見立てに愛惜がある。俳句には爺や婆がよく出てくるが、たいていの場合、それが作者自身であったほうが味わい深い。