鷹の掲載句

主宰の今月の12句

初暦光悦展の待ち遠し

かいつぶり古墳の緑こんもりと

うどん屋も十日戎の人出なり

四方に散る撞球の玉冬深し

悴みて足踏みに待つパパラッチ

少女にも突く拳あり寒稽古

深海を知る鱈の目に雪降れり

馬小屋の静まりにけり雪女

ページ繰る指の明るし雪の朝

雪投げに駆け回り息燃やすなり

髷結うて明治の裸婦や桐火鉢

声まるき女性車掌よ春隣

(「週刊俳句」第八七二号発表句を含む)

今月の鷹誌から

推薦30句

結氷湖一鳥発ちて蒼みたり        

寒卵ひとりに一つひとりなり       

嗤ふため猿を見に来し小春かな      

晴れさうな空より木の葉時雨かな     

子の最期知る人の無し厚氷        

大鍋のとろ火に煮ゆる猪の骨       

壁といふ壁にロッカー駅凍つる      

灯台も砲台も海向けり冬         

つまづきてふりさけ見れば冬の月     

顔捨てて坐りし男暦売          

スカジャンの幼き母と赤毛の子      

強霜や父の欅を伐り倒す         

這松を渡る風音神の旅          

玉響に過ぎし子の影息白し        

全五段鉛版運ぶ師走かな         

岩永 佐保

喜納 とし子

髙柳 克弘

辻内 京子

天地 わたる

岡本 雅洸

椎名 果歩

黒澤 あき緒

栗栖 住雄

佐竹 三佳

三輪 遊

小熊 春江

今井 妙

澤村 五風

瀬下 坐髙

ゆらぎつつ昇る太陽氷面鏡        

恋のなき胸に柚子湯の柚子あたる     

皆何か待つてゐるなり日向ぼこ      

鎌倉の古本屋よりインバネス       

落葉松散り鳥きひきひと鳴き ふ     

戦場に持つてゆくなら威し銃       

夫あらば違ふ晩年冬銀河         

天狼や地図に国境鬩ぎ合ふ        

目を瞑り独りになりぬ日向ぼこ      

十二月八日敗戦開始の日         

焚火囲んでにんげんの裏おもて      

散骨を云ふは易しよ冬の虹        

帰り花記憶の積もらざる母よ       

日記買ふニライカナイはまだ遠き     

冬の蚊や曇りガラスに影うかべ      

朝野 治美

松田 りょう

橋本 耕二

長谷川 野蒜

倉本 萵苣

茂木 とみお

堀 白夜子

西嶋 景子

荒井 東

白鳥 寛山

山岸 文明

仲間 春海

斉藤 扶実

三浦 啓作

中野 こと子

秀句の風景 小川軽舟

寒卵ひとりに一つひとりなり        喜納 とし子

 例えば学生の合宿の朝食会場の広間。あるいは、これからすき焼を始める家庭の食卓。一人に一つずつ小鉢に入った生卵の並ぶ眺めはすぐに思い浮かぶ。俳句でもしばしば見かけるから、「寒卵ひとりに一つ」まではもはや常識と言ってよい。だからこそ、ああ、またか、と思いながら読みはじめた読者を、下五の「ひとりなり」が見事に裏切る。予期しない下五に驚かされるのだ。読者を手玉に取る心憎いテクニックだとまずは思う。
 しかし、作者にしてみれば感じたことをそのまま言葉にしただけだということなのだろう。一人の食卓に卵を置くと、家族分の卵の並んだかつての食卓が思い出された。そして、あらためてひとりきりの今の境遇を思い知る。「ひとりなり」は作者の真情を吐露したつぶやきなのだ。

顔捨てて坐りし男暦売           佐竹 三佳

 「顔捨てて」が思い切った措辞である。暦を吊ったり広げたりした中に小さな椅子を据えて坐った男。愛想はけっしてよくないのだろう。表情はもちろんのこと、自分の属性を一切捨てて、ただの暦売になりきった潔さが見て取れる。これまでの人生の来歴を捨ててここに流れ着いた男のようにも見える。その男が未来へ向かう日々を刻む暦を売っているという巡り合わせが皮肉だ。

スカジャンの幼き母と赤毛の子       三輪 遊

 派手な刺繍をほどこしたスカジャンを羽織る母は、まだ十代かと思われるあどけない顔立ちをしている。赤毛の子は米兵との間に生まれたのだろうと想像する。横須賀吟行で出来た句だと聞いた。ドブ板通りあたりで実際に見かけた親子なのか。あるいは店先に吊られたスカジャンを見ていて脳裏に浮かんだ幻なのか。スカジャンをきっかけに作者の脳裏で物語が育っていったようだ。

鎌倉の古本屋よりインバネス        長谷川 野蒜

 鎌倉の古本屋だというだけでなんとなく雰囲気がある。そこからふらりとインバネスの男が現れたとなれば尚更だ。鎌倉と言えばそこに暮らした文士の多くが思い浮かぶからだろう。太平洋戦争のさなか、鎌倉の文士たちが蔵書を提供して鎌倉文庫という貸本屋を開き、川端康成、久米正雄らが交代で店番をした。掲句の古本屋にはその俤が重なるようだ。

嗤ふため猿を見に来し小春かな       髙柳 克弘

 動物園の猿山に猿を見に来た。ボス猿を筆頭に集団で暮らす猿山は人間社会の縮図のようでもあり、猿たちの行動も人間くさい。それがおかしくて嗤う。猿の愚かさを嗤うのである。所変わればこの句の主人公も人間社会においてその愚かさを嗤われている。だから猿の愚かさに自分の愚かさを見て嗤うのだ。それが彼にとっての猿の愛し方なのである。

恋のなき胸に柚子湯の柚子あたる      松田 りょう

 「恋のなき胸」には作者のような若い男の胸が似合うように思う。その胸の空虚を埋める恋を欲しているのである。しかしながら、さしあたりその相手が見当たらない。そんな若者にちょっかいを出すような柚子が可憐だ。

晴れさうな空より木の葉時雨かな      辻内 京子

 雨が小止みになり、空が明るくなってきた。残った雲を吹き払うように風が吹く。その風に吹かれて木の葉がばらばらと落ちてきた。いかにも初冬らしい風景である。木の葉時雨は時雨ではない。木の葉がひとしきり降るのを時雨に見立てた季語である。晴れそうなのにまた時雨だよ、と読者の気を引くところに上品なウィットがある。

散骨を云ふは易しよ冬の虹         仲間 春海

 死んだら遺骨は故郷の海に撒いてほしい、と臨終の床で言われてしまった。散骨にどんな手続きが必要なのか知らないが、墓地に埋葬するより面倒なことは間違いないだろう。気安く言われても実行するのは大変だ。手配した船で寒風を突いて沖に出る。船酔いに耐えてやっと散骨を終えると、時雨まじりの空に虹が立った。故人はこれで気が済んだろうか。虹を仰ぐ顔に涙が一筋流れる。

子の最期知る人の無し厚氷         天地 わたる

「享年四十四」と記された今月の連作から。「子の最期知る人の無し」とは誰にも看取られずに死んだということだ。どんな様子で死んだのか、どんな思いで死を迎えたのか。その気持を汲んでやりたくても、作者の声は死者に耳に届かない。外は厳しく冷え込み、厚い氷が張っている。それが作者の無念の分厚さを思わせる。

 凩や子を焼いてきて米を研ぐ         わたる

亡骸を荼毘に付して家に帰る。飯を食うために米を研がねばならない。自分が生者であることを突きつけられるその行為が、あらためて死者と自分を遠ざけるに違いない。