鷹の掲載句

主宰の今月の12句

ばいきんを洗ふ幼や柿の花

徳川の昔も近し牡丹園

良港は山陰深しほととぎす

川底の石蹴立て鮎のぼりけり

明星に闇うるほふや河鹿鳴く

山毛欅芽吹き山梳る沢あまた

水音の広き夜明や水芭蕉

湖は満ちてあふれず桐の花

梅雨近き雲に白山

一堂に信徒蒸さるる走り梅雨

殷々と念仏うねり汗滲む

川見えで川音高き青葉かな

(「俳句」七月号発表作品より)

今月の鷹誌から

推薦30句

かげろふや前行く夫に追ひつけず     

松の湯に一番のりや吹流し        

旱星はだしの国の眼のひかり       

掛軸の白描の竹風涼し          

竹を打つ雨みどりなり丈山忌       

雑踏をアオザイの人白日傘        

新宿の十坪に重機梅雨の月        

毛蚕掃くや雨雲の湧く四囲の山      

万緑や一歩一歩に血の目覚む       

春の叙勲友の名小さくありたるよ     

神宮に鮫の大群青嵐           

ふるさとの木苺雨の味したり       

灯点して暗き四隅や夏館          

旅装解き上ぐる灯明守宮鳴く       

女とふ文字の踏ん張り青嵐        

喜納 とし子

黒澤 あき緒

折勝 家鴨

辻内 京子

梅野 幸子

林 るい子

辻 和香子

中村 哲乎

奥田  遙

茂木 とみお

本城 清

山下 桐子

原 信一郎

大岡 吉一郎

長沼 光子

ソーダ水旅の土産を渡し合ふ       

亡き友の声うしろより黒揚羽      

封切りしのみにこぼれて種袋       

母の日の拭き跡残る座卓かな       

ボルネオの夏蒼茫の雲霧林        

さらさらと大蜘蛛畳走りけり       

銀座線降りて銀座や風薫る        

うららかやパターを磨く共白髪      

山入りに拍手打つや漆搔        

空部屋に風通しをりこどもの日      

麻服に青空雨を零しけり         

昭和の日コンビナートの空青し      

刀匠の祀る火の神月見草         

水弾く少女の肌や冷し飴         

じぶんの手見つけし赤子夏来る      

佐藤 栄利子

多田 芳子

今井  妙

安齋 文則

高 くるみ

宇野 桑梓

市東 晶

百川 秀子

笹倉 鳥馬

川本 梨枝

清水 風子

辻 小雪

福井 恬釟

林 裕美

南 沙月

秀句の風景 小川軽舟

新宿の 十坪に重機梅雨の月         辻 和香子

 最近の新宿では、高さ二二五メートルのエンターテインメントビル、東急歌舞伎町タワーが開業して話題になった。その一方、入り組んだ路地に飲食店の密集する界隈も健在で、敗戦後の闇市の名残をとどめている。この句は後者の一隅で見たものだろう。何が建っていたのか、取り壊されてみると敷地はわずか十坪ほど。作業途中の重機が狭苦しそうに居座っている。「新宿の十坪に重機」が少しの無駄もない表現で的確にその様子を伝えている。
 梅雨の月の取り合わせもよい。やんだばかりの雨が重機から滴り、雲間の月がそれを照らす。都会で誰しも見たことのありそうな情景である。俳句の素材に対する感度を上げ、言葉を磨くことを怠らなければ、それをこのような味わい深い一句に仕上げることができるのだ。

万緑や一歩一歩に血の目覚む        奥田 遙

 森の深い山中に出かけ、万緑を五感で満喫する。山気が全身に浸み、高鳴る鼓動とともに血が目覚める。自分の体なのに、安穏に日々を送っている時とは別物のように生気が漲るようだ。万緑と血の鮮紅の対比が力強い。血が見える情景でなくとも、体を駆け巡る血の色を読者の脳裏に呼び起こす。

春の叙勲友の名小さくありたるよ      茂木 とみお

 春の叙勲は四月二十九日、秋の叙勲は十一月三日が恒例。今年の春の叙勲は四千人余り、大綬章から単光章までのランクがあり、大綬章は政治家や財界人など社会的地位を極めた人、単光章は消防署員や郵便局員など現場で精励する人が対象である。小さくあった友の名は後者に近いのだろう。
 「春の叙勲」は季語ではない。この句の季語は春である。新聞の紙面をびっしり埋めた名簿に友の名を見出したときのほのぼのとしたうれしさは、春だからこそ感じられる。

神宮に鮫の大群青嵐            本城 清

 神宮にもいろいろあるが、私は明治神宮、神宮外苑、神宮球場のある一帯を思った。その空を鮫の大群が過ぎる。金子兜太の「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」のイメージを借りつつ、青嵐の季語の勢いを得て幻想を羽ばたかせた。
 死の迫った坂本龍一が関係者に中止を求める手紙を送ったことで、神宮外苑を一変させる開発計画が世間の耳目を集めた。そこにはどんな権利と金銭が渦巻いているのか。兜太の句の背後に戦地の南洋の鮫の印象があるのと同様、この句の鮫の大群にも何やら寓意を感じ取ることができそうだ。

女とふ文字の踏ん張り青嵐         長沼 光子

 詩人は文字を眺めることが多いからか、文字を詩にすることも多い。例えば三好達治の「郷愁」には、「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。──海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。」の一節がある。
 作者は「女」という字を眺めていて、踏んばる一人の女の姿を連想した。それは女に生まれた作者自身でもある。髪を乱して毅然と立つ女が見える青嵐の取り合わせが凜々しい。

母の日の拭き跡残る座卓かな        安齋 文則

 これ見よがしなところの何もないところに俳句らしい滋味がある。台布巾で拭いた跡の残る座卓は母の日とどんな関係があるのか。あえて場面を想像する必要もないだろう。ただその拭き跡に母のなつかしさが重なったのだ。心静かにこの句を眺めればその心情は十分汲み取れるものと思う。

うららかやパターを磨く共白髪       百川 秀子

 ゴルフは金持ちやサラリーマンのものという先入観で見ると、ゴルフの俳句は俗っぽく感じるだろう。しかし、今やゴルフは健康的な娯楽の一つになった。この句のように老夫婦が楽しむこともできるのだ。コースに出るのを楽しみにパターを磨いている。ゴルフと共白髪の思いがけない組み合わせが現代的でおもしろい。

竹を打つ雨みどりなり丈山忌        梅野 幸子

 石川丈山は江戸時代初めの文人武将。京都の詩仙堂に閑居したことで知られる。この句にも詩仙堂の丈山の面影を感じることができるだろう。そしてまた、内藤鳴雪の「初冬の竹緑なり詩仙堂」が思い出される。丈山の忌日は旧暦五月二三日。五月雨に打たれる竹の美しさをもって、鳴雪に呼びかけているような句でもある。

じぶんの手見つけし赤子夏来る       南 沙月

 育児と出産で多忙をきわめる南さんは一度に六句投句できないことが多く、今月は三句だけだった。ところが、そんな状態なのに近頃の作品にはしばしば驚かされる。
 仰向きに寝かされた赤ん坊が目の前に差し出した自分の手を見ている。世界のまだごく一部しか知らない赤ん坊にとって、それは自分の手を見つけた瞬間なのだ。誰しも見覚えのある赤ん坊の仕草が、そう言われると神々しくも思える。