鷹の掲載句

主宰の今月の12句

斥候

2021年12月号

爽やかや家賃日割に借家出づ

女子は女子同士良夜の塾帰り

鳥の子の襖ほのめく月夜かな

宵闇の赤子また泣き窓点る

風吹けば星のしよぼつく破芭蕉

色鳥や土ひんやりと松林

鶺鴒の斥候波止を行き戻り

煽られし芋の葉を露躍り出づ

栃の実や雨に濁らず沢早し

竹の葉の縋る音して竹伐らる

鈴懸の木漏日に秋寂びにけり

抽斗を抜いて畳に冬支度

今月の鷹誌から

推薦30句

2021年12月号

秋果選る男の初老佳かりけり       

宵闇や白杖絶え間なく響く        

秋晴や電柱のみの本籍地         

枯野に母ひかり貪るやうにをり      

あれはみなしごの水筒月の川       

石庭の白砂流るる月夜かな        

巨き鳥かむさるやうに花野暮る      

乗継のバスターミナル林檎買ふ      

追焚きの藁ひと摑み今年米        

八月や昔も今も鶴折らず         

叩かれて売れ残りたる西瓜かな      

熔岩原に噴煙はるか秋薊         

ことりねこやもりの食事秋の朝      

苔桃や急登に踏む力足          

長月や絵皿につくる松の色        

布施 伊夜子

竹岡 一郎

遠藤 篁芽

兼城 雄

髙柳 克弘

林田 美音

大井 さち子

半田 貴子

甲斐 正大

加藤 よい子

石山 善也

高橋 久美子

志藤 絵菜

中村 哲乎

古賀 和世

道をしへ陣馬山まで供をせよ       

色変へぬ松や朝晩米の飯        

牧水忌らしき句つくり破り捨つ      

過疎の地の長寿番付敬老日        

蔕落の柿や秀吉人たらし         

飼主を覗き込む犬秋の暮         

白檜曽の球果むらさき避暑期果つ     

太刀魚の身に誉疵ありにけり       

籐椅子や何処まで己甘やかす       

一輪の木槿茶会を見届くる        

栗叩くけはしきまでに空蒼し       

良夜なり問はず語りの恋の      

冬隣虫が虫喰ふ日暮かな         

生コンを一台打ちて三尺寝        

八月六日雨の牡蠣殻踏みしだく      

阿部 述美

尾林 和華子

清野 寿啓

大山 勝子

大田 元一

安西 信之

喜多島 啓子

羽立 ひな

斉藤 理枝

松岡 美和子

古屋 德男

野手 花子

澤井 洋子

三浦 啓作

金子 三津子

秀句の風景 小川軽舟

2021年12月号

乗継のバスターミナル林檎買ふ       半田 貴子

 旅先で詠む俳句は、絵葉書のような紋切型の景色や観光パンフレットのような説明になりがちだ。そうでなければ宿で酒を酌むか風呂に浸かっている。この句はそのどちらでもないところで、作者の旅情を表せたところがよい。例えば山中の温泉から松本のバスターミナルに出て、新宿行の高速バスに乗り継ぐ。そのバスターミナルで林檎が売られていた。信州はもう林檎の季節だったかと気づいて土産に買って帰ろうと動いた心に、自然に湧いた旅情が認められるのである。

熔岩原に噴煙はるか秋薊        高橋 久美子

 気持ちのよい風景句である。土産物屋の絵葉書には鬼押出しから望む浅間山が噴煙を上げている。観光パンフレットには天明三年の大噴火で熔岩がここまで流れたと説明がある。ところが、この句は絵葉書や観光パンフレットをなぞったという難を感じさせない。目の前の風景に対する作者自身の感動がそのまま素直に一句をなしたからなのだろう。

白檜曽の球果むらさき避暑期果つ      喜多島 啓子

 白檜曽は本州では概ね標高千五百メートル以上の高地に分布する。ずいぶん高く登ってきたなと風景を見て感じたら、そこは白檜曽の森であることが多い。球果は針葉樹の果実で、松ならば新松子がそれに当る。白檜曽を知らない人にはわからない我儘な句にも見えるが、この程度の我儘を通して読者に顔を向けさせるのも悪くない。紫色の球果は避暑地の針葉樹林の濃密な香りへと私をいざなってくれた。

牧水忌らしき句つくり破り捨つ       清野 寿啓

 こんな忌日俳句もあるのかと驚いた。牧水忌らしい句と言えば旅か酒をあしらったものだろう。「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」、これらの名歌を作者は愛誦しているに違いない。しかし、旅や酒で牧水を気取っても、牧水の本当の寂しさには到底迫れていないと気づく。「破り捨つ」は真に牧水を愛すればこそなのだ。

追焚きの藁ひと摑み今年米         甲斐 正大

 竃で炊く。その要領を私は知らないけれども、米を炊く心得に「初めちょろちょろ中ぱっぱ」と言うのは聞いたことがある。火力を瞬時に加えるための藁ひと摑みなのだろう。藁は火の回りが早いから忽ち明るく燃え上がる。新米を育んだ藁に違いない。炊き上がりが楽しみなことだ。

一輪の木槿茶会を見届くる         松岡 美和子

 茶会の床の間の花生の木槿である。白く大きなその一輪は、季節の趣向を凝らした掛軸や茶道具に合わせて、亭主自ら心を込めて生けたはずだ。大寄せの茶会ともなれば多くの客が訪れ朝から何度も席が設けられる。華やかな茶席の裏では、水屋で門人が忙しく立ち働く。
 木槿は早朝開いて夕方萎む一日花。そこがこの句の要所である。客も帰った後片付けの頃、花生の木槿が萎んで、ぽとりと床に落ちる。木槿はまさしく茶会を見届けたのだ。たった一輪で座を清らかに見せる風格と、生きものであるがゆえのあわれが、木槿の本質として申し分なく表された。

生コンを一台打ちて三尺寝         三浦 啓作

 工事現場にコンクリートミキサー車がやって来て、生コンを流し込む。建物の基礎にコンクリートを流し込むことを打設と言い、単に打つとも言う。一台分を打ち終えて休憩の午睡を取っているらしい。「一台打ちて」は労働の現場の言葉であり、詩人の言葉ではない。だからこそ、虚飾のない裸の言葉として輝いて見える。労働の合間の昼寝である三尺寝の季語も、所を得ていきいきとしている。

あれはみなしごの水筒月の川        髙柳 克弘

 月の光に照らされた川面を水筒が流れて行く。あれはみなしごの水筒だと指し示す声は、果たして自分の声なのだろうか。そのみなしごはどこでどうしているのか。そもそも自分はいったいどこにいるのか。夢の中のように覚束ないのに水筒だけがなまなましい。不思議な世界観の句である。平仮名表記と句またがりのため、表の意味の向こう側に「皆、死後」という言葉が漂流している気がした。

ことりねこやもりの食事秋の朝       志藤 絵菜

 まるで子供が作ったようだけれど、歴とした大人の作った句である。爽やかな秋の朝、おそらく作者も朝食をとりながら、家とそのまわりで暮らす小鳥、猫、守宮それぞれの食事の様子を思っているのだ。「食事」と言ったことで小鳥、猫、守宮が擬人化され、童話の挿絵のような趣になる。この句の平仮名表記も効果的だ。一瞬では意味を読み取れず呪文のように見える平仮名を読み下すと、小鳥と猫と守宮が順に姿を現わす。大人の童心を描くには、童心だけでなく、それなりの表現の工夫が必要なのだ。