鷹の掲載句
主宰の今月の12句
雲雀鳴く空広く町つつましき
駅前にコンビニもなし犬ふぐり
摘みに来て川音高し蕗の薹
伸びあがり羽ばたき喧嘩残り鴨
マンションの床の間薄し黄水仙
筆の穂に鼬の
うつすらと眼鏡に
目刺焼く煙を外に逃がしけり
民藝の鉢の厚みや藪椿
蜆椀しじみの腹のふつくりと
八雲立ち八百重波寄す春の朝
(「WEP俳句通信」一二六号、「白魚火」四月号発表句を含む)
今月の鷹誌から
推薦30句
ふかぶかと箸入れ芋の
師の首を挙げてこそ弟子蒼鷹
真つさらな朝ゆきわたる雪野かな
鶺鴒の貧乏歩き冬河原
川べりに社旗安全旗初景色
習作の裸婦散る床や冬さうび
鏡餅映す鏡や美容室
除雪車の最後が戻り空白む
読初や栞はさみしところより
寒晴や挙兵のごとく起業せる
かりがねやシベリア広き世界地図
試着して鏡へ一歩春隣
空部屋の姫鏡台や嫁が君
俺がゐて親父がゐた日返り花
夜勤明の父を出迎へ春着の子
布施 伊夜子
加藤 静夫
桐山 太志
宮木 登美江
清家 馬子
押田 みほ
小山 博子
宮沢 房良
吉祥 治郎
柏倉 健介
筒井 龍尾
半田 貴子
阿部 述美
野尻 寿康
杉中 昌樹
初場所や芸妓の裾の磯馴れ松
冬枯やジャブジャブ池は水抜かれ
通勤は仕事の助走冬青空
石畳突つ慳貪や寒波来る
父看取り夢にも看取り冬の雨
すすきみみづく道端は子にかがやける
大柄の母の着痩せや初鏡
山の物煮て濃き湯気や今朝の冬
鴇色に明くる峡空初手水
小豆煮る木篦や雪の小正月
探梅行富士の日暮を見て終る
珈琲待つ薪ストーブに近き席
素手で拭く眼鏡の玉や蓮根掘
東京の雪踏むスマホ握りしめ
左義長の闇抉じ開けて燃え立てり
入倉 富美子
田中 きみ枝
斉田 多恵
渡邊 健治
峰 三保子
山下 桐子
池田 なつ
飯島 美智子
中島 悦子
なかむら 美和
鳥海 壮六
芝崎 芙美子
堤 幸彦
長尾 たか子
川添 弘幸
秀句の風景 小川軽舟
ふかぶかと箸入れ芋の 頭 祝ふ 布施 伊夜子
子沢山に通じる正月の縁起物として親芋を雑煮にする。俳句では五音で使いやすい「芋
手強い季語を「ふかぶかと箸入れ」だけでたやすく料理した布施さんの手腕に感服する。炊き上がった親芋の滋味が感じられてうれしくなる句だ。この季語の用例はまだ『季語別鷹俳句集』にない。めでたい季語を「鷹」で生かせたことが喜ばしい。
川べりに社旗安全旗初景色 清家 馬子
河川改修工事か橋梁の架替えか。プレハブの工事事務所が建ち、掲げた社旗と安全旗が寒風にはためいている。緑十字の安全旗は工事現場の安全を祈念するものである。正月で工事は休みだが、社旗と安全旗は現場の矜恃を示さんばかりに誇らしげなのだ。
何をもって初景色と詠むか。お決まりの正月風景では退屈になる。意外さで読者を驚かせながら、新年らしい晴れがましさを納得させる。それにはまず、作者自身の心に適う初景色を見出さなければならない。それを見出したならば、あとは新年詠らしく格調をととのえる。「社旗安全旗初景色」の切れ味のよい調べには思わず姿勢を正される。
師の首を挙げてこそ弟子蒼鷹 加藤 静夫
穏やかならぬ句だ。湘子先生には次の句がある。
先生は自註で「馬酔木」時代に水原秋櫻子夫妻と伊豆の達磨山に登ったことを思い出す。富士山が素晴らしく大きく見えたそうだ。そして、「私にとって秋櫻子は富士山、私自身はようやく達磨山の中腹あたり」と結ぶ。先生は秋櫻子に師事する間も、膝下を離れてからも、そして亡き師となった後も、富士の山頂を踏むべく孜々と己を鍛えたのだ。「たたかふこころ」は長らく秘めていた正直な気持ちなのだろう。
それに引き換え掲句はあっけらかんとしたものだが、師の首級を掲げて意気揚々と引き揚げる弟子の姿は天晴れでさえある。加藤さんはこんな思いを秘めて湘子に師事していたのだろうか。あるいは、近頃の師の小粒になったことをあわれんでいるのか。蒼鷹の取り合わせが暗示的だ。これは鷹衆の「たたかふこころ」を鼓舞する一句なのかもしれない。
寒晴や挙兵のごとく起業せる 柏倉 健介
何人かの同志がこぞって新規事業を起こすことになった。末はビル・ゲイツかスティーブ・ジョブズかと夢見ても、取りあえずは目の前の事業を軌道に乗せるだけで必死だ。失敗すればまさに討ち死。「挙兵のごとく」の勇ましくも切羽詰まった比喩なのだ。作者は昨年、「転職か我慢か棒立ちのシャワー」という句を詠んだ。転職でも我慢でもなく挙兵のごとき起業を選んだ覚悟に、寒晴の青空がすがすがしい。
素手で拭く眼鏡の玉や蓮根掘 堤 幸彦
眼鏡をしたまま全身泥まみれになって蓮根を掘る。泥まみれの眼鏡のレンズは素手でぬぐってまた掛ける。「眼鏡の玉」と言ったところがよい。度の強い厚手のレンズが想像され、素手で拭く指先の感覚が伝わる。労働の実感がすがすがしい句である。
夜勤明の父を出迎へ春着の子 杉中 昌樹
大晦日も夜勤のある仕事なのだ。本人はもちろんだが、家族もわが家はそういうものだと割り切っている。そんな家庭の一齣。年が明けた元日に家に帰ると、春着姿の娘に玄関で迎えられたのである。夜勤の疲れも忘れて、そのまま近所の神社まで初詣に出かけたであろうか。一昔も二昔も前の情景だという感じはする。そもそも正月に晴着を着る風俗を見かけなくなって久しい。それでもこのような家族の風景は、何かに形を変えながら息づいているに違いない。
珈琲待つ薪ストーブに近き席 芝崎 芙美子
薪ストーブがぱちぱちと燃え立つ店内。山荘風の内装の窓の外には雑木林が広がり、雪のちらつきそうな空模様だ。珈琲を待ちながらストーブの炎を見ていると心が落ち着く。季語は一句の大事な要素だが、切れや切字で強調するばかりが使い方ではない。この句のストーブはごく自然に収まりながら、その存在感は一句をたっぷり満たす。
東京の雪踏むスマホ握りしめ 長尾 たか子
長尾さんは米子の人だが、そう断らなくてもこの句は地方から東京に来た人の句だと想像できよう。東京の人より雪には慣れているが、これしきの雪で都市機能が麻痺した東京には困惑する。地図を見るにも、情報を得るにも、誰かに電話するにも、スマホがなかったらどうにもならない。「握りしめ」の心情にスマホ社会の今が現われている。