鷹の掲載句

主宰の今月の12句

主人引く犬が先頭初詣

反故を踏み絵師に寄る猫冬ぬくし

寒明の空深けれど浅縹

立春の谷町筋の夜色かな

シリウスはおほいぬの鼻春来たる

早春やまぶしさうなる人の顔

鶯に財布を軽く出かけたり

空とビル映し矩形の水温む

昼霞遅れし電車客急かす

長堤に松疎らなり揚雲雀

ひとつかみ若布戻せば鍋に満つ

春月や風呂屋の煙押しのぼる

(「俳句四季」二月号、「俳壇」二月号、「WEP俳句通信」一二六号、「週刊俳句」七六八号発表句を含む)

今月の鷹誌から

推薦30句

冬座敷無慙絵婆娑と展げたる       

寒鯉のゆらりと薬師如来かな       

秋果あふるる地階にひらき昇降機     

絨毯に古き血の跡織田作忌       

開頭の前のバリカン夕時雨        

鴨鍋と決まりて午後はガラス拭き     

寒波へ飛び込む鶚爪あらは        

歯ブラシのそつぽ向きあふ冬の朝     

大鷲の捨てし 肉骨鴉突く         

国境の茨線幾重クリスマス        

マフラーや雑木林の影ゆたか       

幸せな犬を見にゆく冬ざくら       

万両や笑みて二粒赤子の歯        

壁龕のサハラの砂も煤払         

湯たんぽに足を揃へて母逝けり      

有澤 榠樝

喜納 とし子

志賀 佳世子

岸 孝信

荒木 山彦

御前 保子

廣田 昭子

佐藤 栄利子

折勝 家鴨

福永 青水

堀田 安代

斉藤 扶実

宮内 正江

齋藤 慎子

髙松 遊絲

冬麗や離宮の庭の常磐松         

灰皿は凶器の重さ灯冴ゆる        

太陽に近きを捥ぎぬ林檎狩        

ポケットの風呂銭鳴らす小春かな     

枯野ゆく翁は見しや十日月        

ぴちぱちと踏む音たのし椎の実は     

一位の実含み男と女かな         

百年後今の人なし冬の月         

的までのしめやかな距離弓始       

象亀に近しき齢日記果つ         

銀閣寺冬至の雨に昏れにけり       

籠を編む竹を裂く音冬めける       

顔見世の相対死の刃かな         

太陽もいつか死ぬ星蒲団干す       

取下げ      

皐 美智子

中野 悠美子

原 笹子

竹本 光雄

西 千冬

福永 久子

瀬下 坐髙

鈴木 直樹

清水 正浩

上田 友子

有田 曳白

古澤 亜美

森下 久美子

柳浦 博美

取下げ

秀句の風景 小川軽舟

開頭の前のバリカン夕時雨         荒木 山彦

 開頭手術の前に頭髪を刈る。バリカンで刈ってからカミソリで剃るのだろう。病室で看護師に刈られている場面を想像する。時雨の降る夕暮のほの暗い窓に自分の姿が映る。たちまち丸坊主になっていくのを見ると、いよいよその時が来たのだと実感する。医師から手術のリスクも説明されたうえで納得はしている。開き直ったつもりでも不安は不安だ。時雨には古来定めなき世の無常観を表わす本意がある。この句の時雨も、寒々とした実景を示すとともに、人生のはかなさを思う患者の胸を内を表わしている。
 荒木さんは二年前の二月号で、コロナ禍を予見したような「北風や初診に問へる渡航歴」が巻頭になった。医師の立場で見た医療現場の句を熱心に投じてくれるが、特異な材料がこなしきれていないものも少なくない。掲句は患者の気持ちに立つことで成功した。医師の立場で詠んだ句としては、
  数へ日や手術を終へる針と糸          山彦
もおもしろい。日常の裁縫を連想させる「針と糸」にほのかなユーモアがあり、手術を終えた安堵感を伝える。

鴨鍋と決まりて午後はガラス拭き      御前 保子

 今夜は鴨鍋にしようと家族の意見が一致。鴨肉、葱その他の買い出しは家族に任せ、作者はガラス拭きに取りかかる。年末の大掃除の一環なのだろう。風雨の汚れを落とすと、居間から見る庭の眺めが見違えるようにすっきりする。鴨鍋とガラス拭きとに何の関係もないのに、妙に張り切った気分が一句を貫いて似合っている。今夜は鍋の湯気でガラスが真っ白に曇ることだろう。

一位の実含み男と女かな          瀬下 坐髙

 庭木や生垣に用いる一位の実は赤く熟すと甘い。子供の頃につまんで食べた覚えのある人は少なくないだろう。ただし、種には毒があるという。
 この句の男と女は、幼い頃を思い出して戯れに口に含んだに違いない。二人が幼馴染であることも想像されよう。『伊勢物語』の「筒井筒」のように、幼馴染がいつしか大人の男と女になって契ったのだ。そう解すれば、一位の実を口に含むことが秘めやかなエロスの象徴であると感じられる。一位の実の新しい情趣を汲み出した句である。

顔見世の相対死の刃かな          森下 久美子

  相対死とは心中のこと。「曽根崎心中」か「心中天網島」か。近松の心中物のクライマックスである。作者は女の喉笛に突き立てられる白刃に目が釘付けになったらしい。心中という言葉ではカモフラージュされてしまう惨たらしい現実が、相対死という言葉で露わになる。歳晩の京都を彩る南座の華やかな顔見世の舞台の中で、ひらめく刃に的を絞り込んで、背筋の寒くなるような戦慄を表わした。

象亀に近しき齢日記果つ          上田 友子

 象亀は長生きで知られ、その寿命は百年以上になるという。日記を閉じて来し方を振り返る。ここまで生きればもはや象亀並みだとは、何とも大らかなユーモアではないか。それは自嘲なのかもしれないが、象亀の立派な体軀と泰然とした動きを思い浮かべると、自賛のようにも見えてくる。

枯野ゆく翁は見しや十日月         西 千冬

 松尾芭蕉が大坂で客死したのは旧暦十月十二日。未明に「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と詠んだ十日には死期を悟って遺書をしたためた。月齢十日の月は半月から少しふくらんだ頃。作者の眼前にそれが冴え冴えとあるのだろう。そして、死の床から枯野にさまよい出た芭蕉の魂もこの月を眺めただろうかと思いを馳せる。常套的な忌日俳句とすることを拒んだ工夫が、芭蕉と作者の距離を縮める。弟子たちが芭蕉をそう呼んだように翁と呼んだのもよい。

壁龕のサハラの砂も煤払          齋藤 慎子

 「壁龕のサハラの砂」は異国情緒たっぷりの材料だ。それに日本の季語の煤払が継ぎはぎされたのが可笑しい。齋藤さんの住むスペインのマラガは地中海に臨む。海の向こうはアフリカ大陸、日本にゴビ砂漠から黄砂が飛んでくるように、サハラ砂漠から砂が飛んでくるのだ。使徒の彫像などが収まって並ぶ古い教会の壁龕を思う。日本で煤払と言えば寺の僧侶が襷掛けで仏像の埃を払う様子が知られるが、彼の地の煤払とは如何なるものか、想像してみるのも楽しい。

湯たんぽに足を揃へて母逝けり       髙松 遊絲

 苦しむことなく亡くなったのである。作者の住む弘前でのことか。足先が冷えないように入れてやった湯たんぽに、きれいに足を揃えたまま母は息を引き取った。臨終の場面を詠んだ句は、生と死の境界を強く意識させるものが多く、それが類型化しやすい。それに対して、この句の生と死の境目のなんとなだらかなことか。そのことが作者を慰めたことだろう。生前の母の人柄を偲ばせる静かな姿が尊い。