鷹の掲載句
主宰の今月の12句
今月の鷹誌から
推薦30句
器に凝る小店持ちたし草の花
秋風の子よ問へば否すべて否
荒し男の鮭焼く火の粉飛び散れり
片頬を引き摺られゆく案山子かな
螽蟖鳴くや弾痕しるき鉄兜
戒名を持たざる妻へ御萩かな
猫が貌洗ふ風鈴しまはむか
解剖の前の一礼秋の蟬
鰻屋の暗き生簀やいとど跳ぶ
山荘に囲むピアノや涼新た
銀のフォーク翳し執事の冬支度
女子寮に西瓜を提げて父来たる
リュート弾くマティスの女秋澄めり
重心を抱きとる介護小鳥来る
岩永 佐保
大井 さち子
宮木 登美江
髙柳 克弘
吉村 東甫
景山 而遊
杉崎 せつ
飯島 白雪
久保田 とらを
小林 紀彦
長岡 美帆
西村 五子
沖 あき
栗原 修二
齋藤 恵子
踏みしむる潮干の渚さやかなり
山百合の開きて雨にしなりけり
虫籠に小窓ありけり木歩の忌
横浜港知りつくしたる氷菓売
閉園の木馬に夜霧流れけり
雁過ぎしあとの青山しづかなり
相手出ぬ受話器握る手秋暑し
この先もずつと老人鰯雲
氷河湖に漕ぎ出す少女朝はじまる
駅の名の武蔵連なる野分晴
畦道をふさぐ軽トラ豊の秋
入国のスタンプ粗し夜霧の灯
長き夜や連れの減りゆく梯子酒
貝割菜妻に教はること多き
天高し草原に馬描きたし
内藤 嘉葉
中山 美恵子
天野 浩美
廣瀬 輝子
佐藤 祥子
遊佐 寿恵
齋藤 伸
穂曽谷 洋
坂巻 恭子
荒井 東
吉成 イク
伊藤 ゲンソウ
平原 廉清
松佐古 孝昭
森山 操
秀句の風景 小川軽舟
猫が貌洗ふ風鈴しまはむか 杉崎 せつ
家の猫が開け放した廊下でしきりに顔を撫でまわす。どうやら雨になりそうな風が出てきて、軒の風鈴の音が高くなった。猫が顔を洗うと雨が降るという俗信がある。私は猫が身近にいないので信憑性の程を知らない。
風鈴をしまうのにいつと日にちが決まっているものではない。風鈴の季節もそろそろ終わりだと思った時にしまうものだろう。残暑が収まると、ひと雨ごとに秋めいてくる。次の雨がその頃合いだと、猫が顔を洗うのを見て心づいたのだ。雨が降るから風鈴をしまうと直に関連づけて読んではこの句はつまらなくなる。「猫が貌洗ふ」から「風鈴しまはむか」に行き着く心理的な間に味わいがあるのだ。
歳時記の分類上は夏の風鈴の句になるのだが、私の気持ちの上では、この句は秋である。
戒名を持たざる妻へ御萩かな 景山 而遊
日本人のほとんどは生前の信仰心の程度を問わず仏教徒として葬られるから戒名を持つが、例えばキリスト教徒ならば戒名はない。それでもお彼岸にはお萩を供える。宗教と習俗の境目があいまいなこの国らしいことだ。お萩は妻の好物だったのかもしれない。
歳時記に御萩はないからこの句は
閉園の木馬に夜霧流れけり 佐藤 祥子
一一三年前にドイツで製作された回転木馬が名物だった遊園地「としまえん」が今年閉園した。この句はそれがきっかけでできたものかと思うが、鑑賞としては一日の終わりの閉園でよい。人っ子ひとりいない園内を満たす夜霧に、輪をなした木馬が浮かび上がる。昼間の華やかな音楽が幻聴のように耳に響く。「流れけり」にいさぎよい情感がある。
駅の名の武蔵連なる野分晴 荒井 東
東京西郊には武蔵を冠した駅名が多い。全国の駅に同じ名前、まぎらわしい名前があると旧国名をつけて区別した国鉄時代の名残である。タワーマンションの林立する武蔵小杉から南武線に乗ると、武蔵中原、武蔵新城、武蔵溝ノ口と武蔵が連なる。武蔵野には雑木林のイメージがあるが、元々は秋になれば一面の花野をなす草原だった。野分晴が武蔵野本来の姿を連想させて上手い取り合わせである。
虫籠に小窓ありけり木歩の忌 天野 浩美
富田木歩は幼時の病気で両足の機能を失った。虫籠に鳴く虫は野に遊べぬ木歩の心を慰めたものか。竹細工の虫籠に虫を出し入れする小さな窓がある。籠を出られぬ虫と部屋を出られぬ木歩のイメージが重ねる。それでも虫は歌を歌い、木歩は俳句を詠んだ。木歩は関東大震災による火災から逃げられずに死んだので忌日は九月一日である。
鰻屋の暗き生簀やいとど跳ぶ 久保田 とらを
木歩の家は貧しい鰻屋。足が立たないのは殺生の祟りだと噂されたと言う。今ではそんな迷信めいたことを言う人もいまいが、この句の鰻屋の腥いほの暗さはどこか木歩の境遇に通じる。竃馬はそんな場所にうってつけの配役。翅のない竃馬が跳びはねることにも何かしらあわれがある。
螽蟖 鳴くや弾痕しるき鉄兜 吉村 東甫
太平洋戦争の激戦地から持ち帰られた遺品だろうか。錆びてぼろぼろだが明らかに弾痕とわかる穴がある。芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ「むざんやな
北八ヶ岳 の苔の森なる茸かな 齋藤 恵子
山好きならそそられる句である。八ヶ岳は展望のよい岩稜が続くが、北八ヶ岳は苔むした深い森に魅力があり、思索的な山登りが味わえる。秋になれば色とりどりの茸が出ることだろう。それもまた幻想的だ。固有名詞の力を信じた句である。実際に登ったことのない人にも
秋風の子よ問へば否すべて否 大井 さち子
幼子が駄々を捏ねているのだろう。何を聞いても「イヤだ」の一点張りなのだ。それがこんなスマートな俳句になることに驚いた。「秋風の」で軽く切れるのは俳句独特の叙法だが、切字のようにはっきり切るわけではない。だから読者の目には「秋風の子よ」として滑り込む。その調子を保ったまま「問へば否すべて否」と息を切らさず詠み上げた。子とともに秋風が颯と吹き抜けたような読後感が残る。