鷹の掲載句

主宰の今月の12句

春の人

2020年4月号

どの顔も春待つ顔や通過駅

邪魔なもの小突く掃除機春隣

比良八荒天を鞴と吹きすさぶ

石鹼玉吹き従へて橋渡る

塀の影ぢりぢり縮み地虫出づ

目に見えて雨やはらかし古雛

春の人眠り手首にレジ袋

空港に日本のにほひ春の雨

掃除する空港広し鳥帰る

腹持ちのはかなき粥や春の暮

麗かや眠るも死ぬも眼鏡取る

畳の上で死ぬため春の家探す

(「俳句」三月号発表句より)

今月の鷹誌から

推薦30句

2020年4月号

蒲団から頭出てゐて眼が動く

川魚に脂の乗りや杜氏来る

朝市の笊の小銭に雪降れり

寒紅梅女の勘を確かめに

壁に吊る紅絹のはたきや寒の内 

凍滝や手を擦れば火の起こる如

松島や牡蠣ざふすゐに温まり

冬菜桶より一束を引き剝がす 

湯豆腐や維新の志士のみな若き

ストーブの前に項垂れ夜明待つ

長靴の親子に氷湖広きかな

冬木の芽鴉二手に分かれけり

格言の老にはきびし初暦

ハモニカに合わす懐メロ梅花節 

街道に家並向き合ふ淑気かな

細谷 ふみを

中島 よね子

荒木 かず枝

三代 寿美代

中本 弓

安食 美津子

清家 馬子

黒﨑 舞句

柳沢 美恵子

山田 友樹

佐竹 三佳

小林 恭子

永井 セツ

田村 フミ江

吉長 道代

回診を待つ毛糸玉片づけて

初髪や潮入川の船着場

泣き虫を褒めて育てぬ冬林檎

潜り戸に傘窄めけり鳥総松 

夕雲の放つ光芒田鳧発つ 

水遣れば気色ばみたり木瓜の花

息殺し並んでをりぬ寒卵 

銀の芽の風に匂へる蓬摘む

林立の帆柱薙げり富士颪 

雨樋に草生えてをり抱卵期

アスファルト剝がせば土や寒桜 

春着の子石段に来て抱かれたり

綿虫や夕日の急かす畑仕事

寒菊や婚の荷を父見つめゐる 

膨れ浮くビニール袋冬の川 

小川 和恵

松本 三江子

西村 五子

辻 和香子

大滝 温子

増田 空良

安方 墨子

村上 二葉

山田 陽子

川口 藍々

池田 八重子

森本 としよ

堤 幸彦

大山 りよう

うちの 純

秀句の風景 小川軽舟

2020年4月号

松島や牡蠣ざふすゐに温まり 清家 馬子

 雑炊は旧仮名で「ざふすゐ」と書くのか。こう書くと妙に旨そうだ。そう思った読者も多いだろう。しかし、手許の辞書を引くと雑炊の旧仮名表記は「ざふすい」とある。
 旧仮名、即ち歴史的仮名遣いは古代の大和言葉の発音を表記に残そうとするものである。他方で漢字の音読みは後から日本語に入ってきたものなので性格が異なる。その漢字の仮名表記を定めたのが本居宣長の字音仮名遣いで、明治時代以後の公式の仮名遣いである歴史的仮名遣いもそれを踏まえている。試しに辞書で漢字熟語の旧仮名表記を見てみるとよい。それらをすべて覚えることは到底できない。それでとにかく辞書を引いて確かめなさいと私は言うのである。
 ところが、仮名遣いは研究によって新しい学説ができ、それが有力になると辞書が採用する。水、睡、炊など「すい」と読む漢字は、戦前の教育では「すゐ」と書くよう教えられていたが、戦後の学説により大半の辞書が「すい」の表記を採用するようになった。雑炊も戦前は「ざふすゐ」だった。昭和九年初版の高浜虚子の『新歳時記』は今も当時のまま「ざふすゐ」である。
 今月号に「われ曾て文芸部長寒鴉」の句もある清家さんが若き日に親しんだ旧仮名の本もすべて「ざふすゐ」だったはずだ。どこの学説だか知らないが自分にとって雑炊は「ざふすゐ」と決まっているのだという頑固さがいかにも清家さんらしい。この句に限って、敢えてこの仮名遣いのまま、否、この仮名遣いだからこそ採る所以である。
 芭蕉は「奥の細道」の旅で松島を訪ね、その風景の素晴らしさを名文に記しているが、ついに一句も残さなかった。それで「松島やああ松島や松島や」を芭蕉作とする俗説まで生まれた。芭蕉さん、そこまで気負うことはないよ、名物の牡蠣雑炊であったまろうよ、という呼びかけの一句である。

川魚に脂の乗りや杜氏来る 中島 よね子

 酒の寒造りのため蔵元に杜氏がやって来る。南部杜氏、丹波杜氏など農閑期に酒造りに携わる技術者集団が日本酒を支えてきた。今年もその時期が来たのだが、それが川魚に脂の乗る頃だというところに、土地の生活感が表われている。酒どころは水のよい土地である。投網を打つ清流の風情もおのずと想像される。何より醸される酒が旨そうなのだ。

冬菜桶より一束を引き剝がす 黒﨑 舞句

 小気味よい写生句である。凍りそうな漬物桶から食べる分を取り出す。一束ごとに漬け込んだから取り出すのも一束ごと。「引き剝がす」が写生に勢いをもたらしている。
 どの星も互ひに遠き冬野かな          舞句
 想像力豊かなこの句もよい。地上から星が遠いのは当たり前だが、星同士の遠さを言って宇宙の奥行きが出た。

蒲団から頭出てゐて眼が動く 細谷 ふみを

 部屋に敷かれた蒲団が見え、そこから突き出た頭が見え、キョロキョロ見回す眼が見える。現実にあり得る情景なのに印象はシュールで気味が悪い。誰を描いたのか。自分で自分を描いたのかも知れない。こんな句を作るのは鷹では細谷さんだけだろう。そう思える独特の個性がある。

潜り戸に傘窄めけり鳥総松  辻 和香子

初髪や潮入川の船着場 松本 三江子

 新年句会で「鷹」の俳句に使われる季語の範囲が狭くなっていることに苦言を呈した。鷹は湘子以来の伝統で季語を席題にすることが少ない。そのため取り合わせに使いやすい季語に偏りやすい。しかも鷹の仲間の俳句を見て俳句を作っているから似通ってくるのだ。そう話したのがよかったのか、今月号はずいぶん様子が変わってきた気がする。
 季語別鷹俳句集を見ると、鳥総松の句が六句、初髪の句が二句あるが、すべて湘子選時代。これらが私たちの生活から遠ざかったことも一因だろう。しかし、辻さん、松本さんの句を見ると、季語が実に生き生きしている。鷹の作者は季語以外のフレーズを見出すのは優れている。季語でもっと苦労すれば見違える結果になるはずだと思う。

林立の帆柱薙げり富士颪 山田 陽子

 富士颪は富士山から吹き下ろす北風で、北颪の傍題と位置づけられる。新年句会の特選に採った句だが、作者が沼津の山田さんと知って句の風景がビシッと決まった気がした。青空に雪の富士を眺めて冬も温暖な地が急に厳しい颪に見舞われた。帆柱を薙いだという表現がそれに相応しい厳しさだ。

膨れ浮くビニール袋冬の川 うちの 純

 中身を出した後に打ち捨てられた白いレジ袋だろうか。見慣れた眺めだが「膨れ浮く」の写生が効いて空恐ろしい。水流を孕んで膨れているのが何やら苦しそうだ。プラスチックごみによる海洋汚染が国際的な環境問題になり、今年七月からレジ袋の有料化が法令で義務づけられる。ビニール袋に罪はない。悪いのは人間である。