鷹の掲載句
主宰の今月の12句
今月の鷹誌から
推薦30句
はや立夏熱血漢ほど早く死ぬ
灼熱の大地を呼吸するケニア
はるかより身籠れる桃どんぶらこ
水響くブリキの流し休暇明
剥製の鹿の眼は秋とこしへに
車廻せば落葉のうへを灯の流れ
ひらきたるルソー画集の草いきれ
母の眼を見つめ乳飲む今朝の秋
黒犀の飢ガスタンク灼けにけり
火の色の波の撥ねたる鵜舟かな
みんみんの終のみーんやわが余生
松越しに照り降りの雨広重忌
梨むくや明日は家族を離れる子
かの日かの時ただにカンナの紅かりき
カクテルに女の名前夜の秋
星野 石雀
奥坂 まや
有澤 榠樝
黒澤あき緒
兼城 雄
中山 玄彦
蓜島 啓介
松ヶ崎惠子
本多 伸也
小竹万里子
吉村 東甫
飯田やよ重
伊澤麻利子
西賀 久實
佐藤栄利子
人の死に淡くなりたり酔芙蓉
日盛やばんこの唸る町工場
玫瑰や汽水の湖の細濁り
銀漢やサバンナの死に無駄はなし
風の吹く夜なり葡萄の甘くなる
かなぶんの玻璃戸叩くや夫の留守
送火の大きく揺れて消えにけり
新涼や三尺店のカツカレー
燈籠のきしきしまはる雨夜かな
朝涼や退職の日のシュレッダー
かなかなや挽歌響ける人類史
鯊泳ぐ盥の夕日翳りけり
土用明わけても髪に疲れあり
若竹や妻に
母見舞ふ終着駅の氷旗
うちの 純
栗山 純臣
西川 素子
今井美佐子
斉田 多恵
原島ヨネ子
岩村 芳枝
村場 十五
石田 麻紀
小林 紀彦
永井 元
平原 桂子
向山八千代
三浦 啓作
礒邉 孝子
秀句の風景 小川軽舟
かの日かの時ただにカンナの紅かりき 西賀 久實
リズムの歯切れのよさが魅力的な句だ。上五が字余りになって七・七・五の形になっているのだが、読者の頭の中では、言葉が文節ごとに三・四・三・四・五の響きを残して駆け抜けてゆく印象がある。そしてその五文節のうち三つの出だしが「か」、残り二つも同じア段の音であることが、歯切れのよさを際立たせている。
「鷹」出身の四ッ谷龍さんの近刊『田中裕明の思い出』に収められた論考に見られるように、四ッ谷さんはかねてから田中作品の句頭韻に注目してきた。掲句はその句頭韻を技法的に突き詰めたものと言ってもよかろう。ただし、作者があえて句頭韻を狙って技巧を凝らしたとも思われない。心にかなうフレーズが口をついて出たとき、それが結果的に句頭韻になっていた。そういう自然さが、田中作品にも、掲句にもある。このような句に多くの内容を求める必要はない。カンナが紅かったその時の鮮烈なイメージと作者の心の揺曳だけが一句に刻まれればそれでよいのだ。
水響くブリキの流し休暇明 黒澤あき緒
一読してなつかしい響きを身体が思い出した。ステンレスのシステムキッチンでもホーローの洗面台でもない。蛇口から勢いよくほとばしる水を受け止めるブリキの流しなればこその響きだ。日常がまた始まる休暇明けの朝の気分を捉えてすがすがしい。
「俳句四季」十月号の座談会「最近の名句集を探る」で黒澤さんの句集『5コース』が取り上げられて好評だったが、その中で中村安伸さんが「特にこの方の特徴として思ったのは、音や、聴覚に関連する表現が際立ってうまいですね」と発言していたのになるほどと納得した。中村さんは「それは多分オノマトペの使い方にも関連していると思います」と続けて言う。今月の黒澤さんの投句では次の句のオノマトペも印象的だった。
高原の天気が好転するとき、見上げる雲はまさしく「わらわらと」切れてゆくのだ。この「わらわらと」は視覚の捉えたものだが、黒澤さんの用いるオノマトペは、五感のいずれが捉えたものであっても、根っこが身体そのものの感覚につながっている感じがする。それは黒澤さん自身が世界をいつも全身で感じようとしているからなのだろう。その感覚が作品を通して読者の身体にも直接訴えかけてくるのだ。
黒犀の飢ガスタンク灼けにけり 本多 伸也
シュールな句である。わざわざ動物園やアフリカのサバンナを持ち出して現実的に読む必要はないだろう。黒犀の飢と灼けたガスタンクが作者の内的必然としてぶつかりあったのだ。読者は炎天下のガスタンクのまわりをうろつく空腹の黒犀を思い描いてもよいし、灼けたガスタンクがまるで黒犀のように見えてもよい。しかし、そうした解釈の是非はさておき、まずは思い切った二物の衝撃そのものを受け止めたい。
ガスタンクを詠んだ句として、金子兜太の「ガスタンクが夜の目標メーデー来る」がよく知られている。兜太には犀の連作もある。掲句に兜太へのオマージュを感じるのはそのせいかもしれない。前衛俳句にギラギラした時代のエネルギーが渦巻いていた頃を思い起こさせる句なのである。
剥製の鹿の眼は秋とこしへに 兼城 雄
鹿は王朝和歌の時代から秋を代表する季物とされている。牡鹿の牝鹿を求める鳴き声が秋の寂しさを際立たせるものと見なされてきた。とはいえ、現実の鹿のまわりでは季節がめぐり、秋はその一つにすぎない。剥製になり、現実の時間が静止してはじめて鹿の秋は永遠になったと作者は感じたらしい。魂のない剥製の、それもガラスを填めた眼に永遠の秋を見出すところが、この作者独特の感覚である。
車廻せば落葉のうへを灯の流れ 中山 玄彦
駐車場から玄関の車寄せへ迎えの車を移動させる。「車を廻す」という言い回しは、しばしばそんな場面で用いられる。敷地の広い邸宅なのか、あるいは老舗の料亭か。庭の木立の落葉が地面に散り敷き、黒塗りの車のヘッドライトがサーチライトのようにぐるりとそれを照らし出す。俳句らしくない素材をさらりと詠みながら、最後の「流れ」の一語に見捨てがたい抒情がある。
朝涼や退職の日のシュレッダー 小林 紀彦
朝早く出社して事務机の最後の片付けをする。引き継ぐ書類はファイルに整理し、処分すべきものはシュレッダーにかける。ビルの空調はまだ動いていないから、窓をあけて外の風を入れる。誰もいないオフィスにシュレッダーの音がやけに大きく聞こえる。今日が最後の日だと思えば、さまざまな思い出が否が応でもよみがえることだろう。
名詞を並べただけでこれほど鮮明な情景を引き出せるのは俳句ならではである。それを心得た上で作者の置いた「朝涼」の季語が、これからの人生を言祝ぐようだ。