鷹の掲載句

主宰の今月の12句

単車駆る

寝不足の身に日のひかり今朝の秋

盆道を軽トラ来たり竹積んで

電球の芯のまぶしき霊まつり

稼いでなんぼ貢いでなんぼ西鶴忌

西鶴忌記録映画の女美し

単車駆る少女の恋や葉月潮

洗濯物とりこむ踵カンナ咲く

ひぐらしや木の家に死に石の墓

釘抜の顎の強しよ休暇明

枝豆や昼間見つけておきし店

盲腸線ひと駅競馬場は秋

月光や青の時代は頬痩せて

(「俳句」九月号発表句を含む)

今月の鷹誌から

推薦30句

栃の実や神話伝ふる明るさに

火よ火よと啼きつる鳥や梅雨に入る

子にほほゑむ母にすべては涼しき無

尨犬も女の腰も暑苦し

風鈴や町の寂れに彳めば

芭蕉打つ夜雨聴きをる帰省かな

あしゆびに淡き昂り昼寝覚

白粉の花に逢瀬の匂ひあり

柿の花天使の翼かたちばかり

白百合や死は真上より覗かるる

薔薇垣やをさなのうたふ蜂の歌

ゆく先は罫なきノート秋はじめ

光り物きでばばあで汗かきで

手花火やホームステイの歓迎会

ふと妻を置き忘れゐる涼しさよ

布施伊夜子

沖  あき

髙柳 克弘

志田 千惠

今野 福子

阿部けい子

辻内 京子

田上比呂美

藤森 弘上

新宮 里栲

澤村 五風

山田 陽子

伊澤のりこ

森田 六波

遠藤 篁芽

木洩日のさざなみ寄せてハンモック

川床涼み妻ほいやりと膝崩す

ビアガーデン星は静かに進みけり

長泣きの子の声ほそり夜の秋

青葉木菟夫の洗ひし皿拭きて

夾竹桃空に鳥消す深さあり

舌打と思ふ夕立の一滴目

行く夏や波打際の海ぬるき

腹切りて続く台詞や夏芝居

一服の片陰探す作業員

夜通しの冷房貝になりし夢

てのひらに小銭広ぐる夜店かな

枝豆や男減りたるクラス会

亡き父母へ夫を返しぬ天の川

農協へ借金かへし梅を干す

井上 宰子

坂口 銀海

宮島 杜子

瀬尾 英子

美園あけみ

荒井  東

幸村 千里

蓜島 啓介

保月 武司

桜井 園子

やうち 海

井出  昇

川出 泰子

島田 星花

栗栖 住雄

秀句の風景 小川軽舟

火よ火よと啼きつる鳥や梅雨に入る 沖  あき

 ひよどりなのだろう。庭にやって来て、その名の通りヒーヨ、ヒーヨと甲高く鳴く。雨に濡れて、ただでさえぼさぼさの羽がさらに毛羽立っている。この句から実景を想像するとすれば、こんなところだろう。
 しかし、言葉の組み合わせは、しばしば実景に還元できない観念的な像を結ぶ。この句の場合は、鳥の声を「火よ火よ」と聞いたところから実景を遊離するのだ。鳥が訴える火とは何なのか。私には煩悩の業火が燃え上がる火宅の存在を知らせているように見えた。法華経は火宅を火事に気づかず遊ぶ子供の姿に喩えて表している。
 「啼きつる」という措辞も古典の香りがしてよい。助動詞の「つ」はそれが意志的な行動であることを示し、語調も強い。百人一首の名歌「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」が余韻のように心に浮かんだ。

白粉の花に逢瀬の匂ひあり 田上比呂美

 俳句で逢瀬だなどとやられても、どうも嘘くさくて鼻白むことが多いのだが、この句の逢瀬は地に足がついている。白粉花は名前こそ優美だが、いたって庶民的な花だ。裏庭の一隅などで勝手に育ち、夕暮に花を咲かせる。白粉花から連想される逢瀬は、家の近所で夕闇にまぎれて会っているという風情。それだけに立ち上る情感もなまなましい。過去のどういう経験が白粉の花に逢瀬の匂いを思わせたのか。記憶の奥底に眠る官能に素直に心を開いた句なのだろう。

川床涼み妻ほいやりと膝崩す 坂口 銀海

 「ほいやり」という擬態語になんともいえぬ味がある。広辞苑を引くと「おだやかにほほえむさま。心のなごむさま」。近松の心中物に用例があるから、大阪の言葉なのかもしれない。関東の言葉にはない語感のやわらかさがあるのだ。鴨川の川床で夕涼みがてら酒食を楽しむ夫婦のひとときである。作者の妻は何年も前に亡くなったはずだが、まるで生きて目の前にいるように思い出されている。俳句はこれほどまでにありありと思い出すことができる器なのだ。

ふと妻を置き忘れゐる涼しさよ 遠藤 篁芽

 いわゆる老老介護の夫婦だろうか。散歩に連れ立ってベンチに並んで座る。作者は何か季語でも見つけて、そのまま妻といたことも忘れて歩き出したのだ。妻は妻でベンチに座ったままにこにこしている。「置き忘れゐる」が切実な事情をユーモアに包んでいかにも篁芽調。だから下五の「涼しさ」が読者にも心穏やかに受け入れられる。

子にほほゑむ母にすべては涼しき無 髙柳 克弘

 他の何人も侵すことのできない母の全き愛情、母子の全き関係が描かれている。わが子にほほえむ母には、他に何ものも存在しないのである。「涼しき無」がまさしく涼しい。
 作者にはすでに句集に発表している、
  

雪投げの母子に我は誰でもなし克弘

があって、全き関係に対する他者としての意識は追いかけてきたテーマなのだが、今度の句では最も身近な家族関係にそれが及んだ。しかし、ここには不思議と疎外感はない。全き関係を見守る幸福が男にはあるのだ。たとえ自分も「涼しき無」であったとしても。

芭蕉打つ夜雨聴きをる帰省かな 阿部けい子

 心惹かれる帰省だ。帰省の句はたくさん作られているが、それらの類型にまぎれることのない存在感がある。軒端に芭蕉が葉を広げている地方の旧家を想像する。紫檀の座卓に向かって、しみじみと雨の音を聞いている。どこか文人墨客のような清雅な気分がある。
 もちろんここには松尾芭蕉の俤が重ねられている。
  

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉芭蕉

深川に隠棲したばかりの頃の句だ。阿部さんの句の帰省子は旧家の御曹司の趣だが、そこに流離の気分が漂うのは芭蕉の俤が纏わるからなのだろう。

光り物きでばばあで汗かきで 伊澤のりこ

 装身具のことでもよいのだが、私は鮨ネタの光り物と読みたい。青光りする鯖や小鰭ばかり握ってもらって頬張る。そしてやたらと汗をかく。六十歳にもならないのに「ばばあ」かと眉を顰める向きもあるかと思うが、半端な年齢だからこそ「ばばあ」だと感じるのではないか。心身ともにすっかり枯れたら、わざわざそう言う必要もないのだ。

あしゆびに淡き昂り昼寝覚 辻内 京子

 前の句の伊澤さんと辻内さんは同世代。印象はずいぶん違うが、こちらもその年代ならではのわが身の感覚を捉えたものだ。まだ半ば夢の中にあるような足の指の淡い昂り。若い頃の直截な昂りではないが、その淡い昂りを大事に思う作者の気持ちは分かる気がする。年齢とともに変化する心身は、当人には一生に一度しか経験できない題材なのだ。