鷹の掲載句

主宰の今月の12句

獣の血

2025年3月号

初雪や神父親しき家族葬

冬日さす卵の殻のざらつきに

ブランコを順に押す父落葉踏み

寒暁のトラックの列埠頭まで

獣の血したたらすなり鯨肉

竈猫国富みるみる減らんとす

ぶつ切りの煮えて骨立つ狩の宿

真後ろに梳くや冷たき巫女の髪

目玉熱く野次馬の顔火事に照る

鰤の身のじわりと紅し蕪鮨

地盤に杭打ち込む重機冬旱

笹鳴や北条の墓ひとならび

今月の鷹誌から

推薦30句

2025年3月号

釣り糸に夕日のあたる十二月       

落葉焚がさりがさりと日が暮れる     

大鷲の影林中に滑り込み         

利き耳はどちらと尋ね日向ぼこ      

買ふがいいと本囁ける聖夜かな      

手を置けば小さき額風邪の妻       

辺境に張りつく村や冬菫         

独走のラガー歓声をも離し        

通勤の電車の窓の初日の出        

油絵の古き青空避寒宿          

おやすみと蒲団に鼻を仕舞ひけり     

他愛なき友の質問年の暮         

冬麗や母に抱かるる兵士像        

葭焼や燃えさしが飛び雲が飛ぶ      

直箸にしやくる饂飩や雪催        

中山 玄彦

夕雨音 瑞華

折勝 家鴨

中田 芙美

堤 直之

松佐古 孝昭

齋藤 慎子

鈴木 沙恵子

葛城 真史

池田 宏陸

大岡 吉一郎

山本 直子

広谷 朝子

日向野 初枝

干䑓 きん子

冬麗や自噴かに伏流水         

どこからも梅田が便利年忘        

くつさめの十も続けばあらぬ声      

考ふるときは縦書冬の星         

人形の碧き虹彩雪催           

悲しみはいつか小石に冬の川       

干菜湯の子の耳真つ赤風荒ぶ       

クリスマスローズ子どもの頃の嘘     

悠々と部屋から部屋へ冬の蠅       

オレンジに灯る陸橋阪神忌        

演習の低き砲声山眠る          

冬霧や銃口ぬっと検問す         

四つに組む力士増えたり蜜柑剝く     

悴んで真つ赤な紐を解きにけり      

黙り込む二人ラヂオの告ぐる雪      

大島 美恵子

吉長 道代

笹木 れい子

帆刈 夕木

岡沢 紀子

漆川 夕

澤村 五風

伊澤 麻利子

中溝 二美与

中野 悠美子

團野 耕一

小林 紀彦

笹野 泰弘

奥田 みつ子

今井 俊彦

秀句の風景 小川軽舟

2025年3月号

辺境に張りつく村や冬菫          齋藤 慎子

 島国の日本に暮らしていると、辺境という言葉を意識することは少ないだろう。陸続きの他国と接する国境があってこそ、国の中心から遠く隔たった国境近い地域としての辺境をイメージできるのだ。その辺境に張りつくようにある村。吹きすさぶ風に耐え、痩せた土地にしがみつくようにして暮らしを営んでいる。それでも冬菫をそこに見出したこの句の印象はけっして暗くない。辺境に暮らす人々にもささやかな幸福があるのだと思わせてくれる。
 なお、辺境という言葉の歴史は意外に古く、『広辞苑』には室町時代の軍記物語『太平記』の用例が挙げられている。中央政府の力の及ばない土地がまだ日本にあったのだ。

独走のラガー歓声をも離し         鈴木 沙恵子

 「歓声をも離し」に密集を抜けだして突き進む疾走感がよく表われている。ボールを抱えて一心不乱に走る選手に、もはや歓声は聞こえないのだ。ひた走る選手がスローモーションで大写しになると音声が消え、トライとともに大歓声が甦る。そんな演出の映像をよく見る。読者の頭にあるそうしたイメージを巧みに援用した「歓声をも離し」だと言えよう。
 ところで、俳句でしばしば見かけるラガーは本来ラグビーそれ自体のことであり、ラグビー選手という意味はないと聞く。ラガーを流行らせたのは昭和九年に観戦した横山白虹の「ラガー等のそのかちうたのみじかけれ」だろうか。ちなみに『日本国語大辞典』はラガーについて「ラグビー。また、ラグビーの選手」と記す。日本語の用例があれば日本語として採録するこの辞典のスタンスが私は好きだ。

通勤の電車の窓の初日の出         葛城 真史

 思いがけない初日の出である。世の中にはさまざまな職業があり、一月一日の未明といえども出勤する人はいる。そうでなければ回らない世の中なのだ。上五中七を何気なく読んだ読者は下五でびっくりする。その顔を想像しながら車窓の初日の出を眺める作者がどこか誇らしげに見える。

利き耳はどちらと尋ね日向ぼこ       中田 芙美

 作者の年齢から想像するに、これは耳の遠くなった者同士の日向ぼこなのだろう。太陽に向かって並んで日向ぼこをするから、聞こえやすい耳の側に座って話しかけたい。「どっちなら聞こえるの?」と尋ねてしまいそうだが、そんな時、「利き耳」という問いかけは相手を気遣って優しい。そうした人づきあいの知恵が片隅から社会を安らかにする。

他愛なき友の質問年の暮          山本 直子

 中田さんの句とは違った角度から、この句もまた片隅から今の社会を描き出していると思う。親しい友人だけに他愛なく聞いてくる質問が、実は作者の心を傷つけている。作者は障がいのある子を施設に預けている。友の質問はその子に関わることなのかもしれない。悪気がないのはわかっているから気にしても仕方ない。年の暮の慌ただしさにすぐにまぎれてくれることだろうとやり過ごす。

釣り糸に夕日のあたる十二月        中山 玄彦

 十二月とはいえ今日は穏やかな日らしい。動きのないこの句の情景は釣堀を想像させる。師走といっても他に用事もない。日が傾くとさすがに冷えてきたので、夕日のあたる釣り糸を見ながらそろそろ切り上げようかと思う。いかにも玄彦さんらしい味わいの句だ。もっとこまやかに描きたくなりそうなところを「夕日のあたる」で済ましている。その何でもなさに作者の平らかな心持ちが感じられる。

どこからも梅田が便利年忘         吉長 道代

 忘年会の幹事を引き受けたのか。メンバーの誰の家からも出てきやすい梅田がよいだろうと店を選ぶ。「どこからも梅田が便利」という平俗なフレーズが年忘の季語でちゃんと詩になる。そこが楽しい。そしてこれはいかにも大阪である。東京は大きすぎて梅田に代わりうる街が思いつかない。

考ふるときは縦書冬の星          帆刈 夕木

 日常使用する日本語において横書はますます縦書を凌駕しつつある。電車に乗って見回しても、新聞や本を広げて読む人はいない。みんな横書のスマホを見ている。作者もそれは変わらないだろう。それでも、ものを考える時は縦書で考えたいという作者に共感する。私はもちろん、私より年少の作者ももう古い人間なのだ。それでも季語の取り合わせには古い人間の矜恃が示されている。「考へる」ではなく文語の「考ふる」としたのもこの句にふさわしい。

くつさめの十も続けばあらぬ声       笹木 れい子

 くしゃみが止まらない。「十も続けばあらぬ声」はみごとな写生だ。これは作者自身だと読んでおきたい。十も続くともう制御不能。自分とも思われぬ声が出た。それを逃さず写生したしぶとさは見上げたものである。