鷹の掲載句

主宰の今月の12句

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2024年7月号

青空に蝶つまづきしもの見えず  一

じれつたきエスカレーター霞草

したたれるペンキの抗議黄砂降る

麗らかや折り畳まるる人の列

鮑になるか一生常節でいいか

頭に体躯連結し蟻穴を出づ

ボルヘスの迷宮深く目借時

はんこ屋に客待つ苗字春の暮

清明やさざなみ写す写生帖

パラフィン紙古りて艶めく康成忌

勾玉を胸乳に垂らす穀雨かな

捥げさうな土偶の乳房夏来たる

今月の鷹誌から

推薦30句

2024年7月号

シェパードを横に坐らせ蜃気楼      

肉串ろ黄泉へと春の道つづく       

町騒に潮騒恋ふる五月かな        

下着にもよそゆきのあり紫木蓮      

四月一日卵があればいい男        

ガーベラがガーベラですと言ひたげに   

行く春や海見尽くして海残る       

春昼の画廊に碧き波走る         

亀鳴くや当たりにちかき外れくじ     

花冷やことば触れ合ふだけの恋      

ヘッドフォン外せぬ少女桔梗の芽     

花の雨クリアファイルを濡らしけり    

分封の蜂畏くも神杉に          

鳥の巣や空の火照りを湖に受く      

蛤のうつかり開いてしまひけり      

細谷 ふみを

岸 孝信

永島 靖子

小澤 光世

牧村 佳那子

作田 きみどり

竹本 光雄

松尾 益代

坂本 空

鈴木 沙恵子

蓬田 息吹

堀口 みゆき

加賀 東鷭

辻 和香子

荻原 梗花

傘を打つ雨は泣き言残る鴨        

甲高き所化の唱題朴芽ぶく        

花万朶手風に頬をさましたり       

富士登山小さき木陰分け合える      

買いながら決める献立春夕        

雲疾き春竜胆の尾根歩く         

風の漕ぐ夜のふらここ子守唄       

林抜けて白き砂浜鳥曇          

雲梯に乳房重たし春夕焼         

花韮の夜目にも白し父の家        

春灯や影絵流るる神楽坂         

すかんぽや遊び呆けし日々遠く      

熊蜂や羽音にまなこ追ひつけず      

雨の日の退屈ソーダ水二杯        

進みたる時計を戻す暮春かな       

葛城 真史

三浦 美苗

小竹 万里子

手塚 賢一

古賀 未樹

加藤 幾代

坂川 花蓮

林 和弥

此雁 窓

石原 由貴子

大内 游人

市山 睦子

城戸 トシ子

藤 野々子

橋本 耕二

秀句の風景 小川軽舟

2024年7月号

肉串ろ黄泉へと春の道つづく     岸 孝信

 春の道を歩いている。いつ果てるとも知れぬまっすぐな道が思われる。晴れた空にひばりが鳴き、道には陽炎が立つ。この道は黄泉まで続いている。作者にはそれがわかっているのだ。春の道は人生の暗喩なのかもしれない。うららかに見えても、その先には必ず死者の国がある。
 「黄泉へと春の道つづく」に奇怪な影を落とすのが「肉串ろ」の枕詞である。肉を串に刺して焼いたもの。旨いものだから同音の「
熟睡 」に、また「良味 」と同音の「黄泉」にかかる。意味は持たないと言われても、「肉串ろ黄泉」という言葉の列なりは、なまなましく読者に迫ってくる。それが枕詞の呪力というものなのか。イザナギとの間に火の神を産んで焼け死に、八種の雷神をまとって蛆にたかられる黄泉のイザナミの死体が私の頭を一瞬過った。

ガーベラがガーベラですと言ひたげに   作田 きみどり

 口の細い硝子の瓶に一輪挿しにしたガーベラを思う。長い茎の先にぱっちり目を開いたような花が載って、私はガーベラですと言いたげにこちらを向いている。なるほどこれはガーベラだ。一種の擬人化だが、ガーベラに向き合って自然に湧いた発想だろう。「言ひたげに」という控えめな表現に、ガーベラと静かな時間を過ごす作者の心が現れている。

春昼の画廊に碧き波走る          松尾 益代

 よほどその絵に惹かれたのだろう。十九世紀フランスのギュスターブ・クールベの「波」のような油絵でもよいし、東山魁夷が唐招提寺御影堂の襖に描いた「濤声」のような日本画でもよい。描かれた碧い波に引き込まれて見入るうち、画廊に碧い波が走ったとまで感じられたのだ。波の轟きすら聞えてきそう。大胆な省略が白昼の幻想を呼び込んだ。

林抜けて白き砂浜鳥曇           林 和弥

 中七の字余りほどではないが、上五の字余りを嫌うのも、湘子先生の教えで育った者の身に染みている。特に助詞が一字はみだして六音になるのは、どうも落ち着かない。となると、この句の上五は「林抜け」でよいはずなのだが、不思議なことに「て」をとると素っ気ない印象になる。「て」で時間がたゆたうことによって、林から砂浜への場面転換が心に響くのだ。おもむろに現れた白砂の浜と、どんよりした空の下に広がる海。鳥曇の季語が若い作者の彼方への憧れをほのかに感じさせる。

春灯や影絵流るる神楽坂          大内 游人

 宵の情景を影絵に喩えて東京でいちばんしっくりするのは神楽坂だろう。明るいばかりではいけない。光と闇が入り交じってこその影絵である。影絵に見立てること自体は驚くことでもないが、「流るる」としたことで行き交う人々の動きが生まれ、それを眺める作者の心を浮き立たせる。一句に情感が生まれるのである。

雲梯に乳房重たし春夕焼          此雁 窓

 戯れに雲梯にぶら下がってみて、乳房が重たいと感じた。そう感じたことで、かつて雲梯を軽々と行き来した少女の頃の体の感覚を思い出したのだろう。大人になり、母になるために、こんな重たいものをぶら下げることになった。人生の時間の奥行きを春の夕焼に見上げているようである。

熊蜂や羽音にまなこ追ひつけず       城戸 トシ子

 熊ん蜂が唸るような羽音を立てて飛んでいる。一箇所にホバリングしたかと思えば、瞬時に場所を移る。獰猛な羽音はずっと聞えるのに、目で追うのが間に合わない。「羽音にまなこ追ひつけず」とは、うまく言ったものだ。

四月一日卵があればいい男         牧村 佳那子

 あまり深く考えて読む必要もないだろう。作者が深く考えて作った句だとも思われない。しかし、深く考えて作った句より、そうでない句の方がおもしろいということはしばしばある。卵焼きでも目玉焼きでも生卵でも、おかずに卵があれば機嫌よく飯を食う男なのである。四月一日は新しい年度の始まりといったところか。それでも変わることなく、今日も卵があればいい男なのだ。

下着にもよそゆきのあり紫木蓮       小澤 光世

 よそゆきの下着は何も色恋の場に限ったものではない。例えば医者に行くときでも下着が気になるだろう。しかし、取り合わせた紫木蓮は妙に艶っぽい。うっかり紫色の下着など連想してしまう。作者は去年「紫木蓮猥りがはしきまでひらき」と詠んでいるではないか。どうやらそんな連想を誘うことも含めて、これは作者のユーモラスな思わせぶりなのだ。紫木蓮と言えば、やはり思い出すのは、「戒名は真砂女でよろし紫木蓮」の鈴木真砂女。私の覚えている九十代の真砂女さんも箪笥の抽斗の奥によそゆきの下着をしのばせていただろうか。……連想はこのくらいに。