鷹の掲載句

主宰の今月の12句

思ふほど

傘差せとしつこき雨や沈丁花

蕗の薹 ひが水を水らしく

春星や空ひたひたと満ちわたり

優駿とならん仔馬に山の星

春陰の店静かなる船場汁

ほぐす身に湯気ひとすぢや蒸鰈

磨り足らぬ墨の滲みも朧なる

思ひ出は思ふほど濃し母子草

鉋の刃小突く木槌や雪柳

ほんのりと酢飯に赤み山桜

低く飛ぶ春の蚊を打つ畳かな

夕東風に尾の先浮かし虎眠る

今月の鷹誌から

推薦30句

何人もあふぐほかなき桜かな       

あとはかなき日和を鴨の帰りけり     

青年に怒りの大義雪解川         

魚は氷に上り赤子の深眠り        

惜春や再びは来ぬ同じ波         

蓮如忌や流星長き尾をひける      

探梅や空たっぷりと見て帰る       

肉叢がスケートスーツ圧し返す      

差しで飲みレシート長し春の雨      

夏柳銭湯の客あたま剃る         

花冷や子の親叱る小児科医        

たんぽぽや小さく跳んで背負ふリュック  

香の強きアラブのしやぼん猫の恋     

春陰や方違へして女許          

赤子泣き家若返る日永かな        

加藤 静夫

今野 福子

竹岡 一郎

遠藤 篁芽

明地 敬子

菊池 雅顕

渡辺 柊子

鶴岡 行馬

竹本 光雄

矢島 広

岡本 典子

作田 きみどり

藤澤 憼子

千乃 じゆん

折勝 家鴨

春ごとや厨に噴きて大羽釜        

ランナーの熱きかたまり木々芽吹く    

背伸びして抜く一冊や花の雨       

ものの芽や八十はまだ生翁        

浅春の畔の七郎鼠かな          

寄生木に連雀来たる二月かな       

マリネリス峡谷に立ちしゃぼん玉     

小回りの利く耕耘機山笑ふ        

辛夷咲くいつも煮物の匂ふ家       

金縷梅のひらく蜘蛛手に朝日さす     

道楽の果の廃墟や春の月         

囀の朝日に彩ふ谷戸の森         

朝日さす岨の山気や松毟鳥        

峡の春老みな若く働けり         

鹿のごとくチェンバロ立てり雪夜なり   

中野 悠美子

阿部 述美

古屋 德男

山岸 文明

野田 修

福永 久子

南 沙月

相澤 信

朝野 治美

杉田 眞佐子

澁井 木艸

那珂 正

山口 枕流

野尻 寿康

大井 さち子

秀句の風景 小川軽舟

惜春や再びは来ぬ同じ波  明地 敬子

 広い砂浜に立ち、寄せ来る波を眺めている。こんな風にゆっくり海と向き合うのは久しぶりだ。自然の波は造波プールの波のように規則正しく寄せては来ない。高さも形も一つとして同じものはない。
 この句には、逝く春を惜しむとともに、人生を惜しむ気分が濃くある。そう思わせるのは「再びは来ぬ」という措辞がよいからだろう。調べを豊かにする上でも、詠嘆に奥行きをもたらす上でも、助詞の「は」の一字が無類の効果を上げている。人生に寄せたあの波にもう一度会いたいと願っても、それはもうかなわぬ夢なのだ。

何人もあふぐほかなき桜かな        加藤 静夫

 コロナ禍でのマスクの取扱い一つとっても、日本の社会のいわゆる同調圧力は、諸外国より強いことがよくわかった。桜が咲けば、「ああ、美しい」と桜を仰がなければおかしな人間だと見られる。花見などする心境になくても、人前では取りあえず仰いでおいた方が安んじて生きていける。桜は日本人の心情を象徴するとされる花だ。その桜を通して私たち日本人のありようを眺めた句である。
 表現のうえでは、日本国憲法を連想させる「
何人 」が利いている。例えば、憲法第二十条は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と謳う。更に同条第二項は、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と言っている。

青年に怒りの大義雪解川          竹岡 一郎

 安倍元首相の銃撃事件の記憶がまだなまなましいうちに、和歌山の漁港で岸田首相に手製の爆弾が投げつけられる事件が起きた。実行犯の二十四歳の青年は黙秘しているが、自分が参議院議員選挙に立候補できなかったのは憲法違反だとして国を相手に裁判を起こしていたことが報じられている。
 社会の同調圧力からはみ出して事件を起こす者には、その者なりの理屈がある。それは社会からは身勝手な理屈だと排除される。排除され、抑圧されるほど、その理屈は青年の心の中で大義へと膨張し、やがて暴発する。犯罪は無論許されないが、大義を膨張させたのはこの社会なのではないか。そうした大義は同調圧力の陰に隠れて方々で勢いを増しているのではないか。まばゆい奔流をなす雪解川を取り合わせた作者の意図を、読者それぞれが考えてみるとよいだろう。

ものの芽や八十はまだ生翁  山岸 文明

 間もなく満八十歳を迎える感慨である。「生翁」という言葉がおもしろい。「生」はまだ十分でないこと、未熟なことを指す。生乾き、生意気、生学問、生女房といった類。つまり、翁としては未熟だというのだ。
 確かに、肉体的にも、精神的にも、老人になる年齢は高齢化している。還暦くらいでは老人の入口にも立てていない感じだ。とはいえ、八十歳ならばもう十分に老人だと思うのだが、作者はそう実感できないのだ。「生」の語感から、作者の心身にはまだ生臭い欲求がうずくのだとも思われる。枯れ切れない自分がむしろ愛おしいのではあるまいか。

峡の春老みな若く働けり          野尻 寿康

 こちらは老いを詠ってすがすがしい。長年暮らした松本から新潟県に居を移した作者の生活環境を具体的には知らないが、林業や農業に従事する老人に会う機会が増えたのか。孤独やストレスに悩む都会の老人に比べて、田舎で働く老人の健康で若々しいことに驚き、そして励まされたのだ。野尻さんは山岸さんより更に年長だが、心境は峡に春が来たようにあらたまったのだと思う。

小回りの利く耕耘機山笑ふ         相澤 信

 車好きに愛車があるように、これは愛機と言うべき耕耘機なのである。気心のしれた相棒を思いのままに操って田畑を耕す。しかし、この句は耕耘機を描いていながら、読者にはむしろ棚田や段畑のような不整形な農地の様子が目に浮かぶことだろう。そう促す「山笑ふ」の季語が上手い。

金縷梅のひらく蜘蛛手に朝日さす      杉田 眞佐子

 蜘蛛手とは蜘蛛が脚を広げたような形状や文様を指す。なるほど金縷梅の花片の特異な形はまさしく蜘蛛が脚を広げたようだ。とはいえ金縷梅の花が蜘蛛の脚のようだと即物的に喩えてはこの句の味わいに及ばない。蜘蛛手と言い、朝日を差し込ませたことで、蜘蛛の怪しさは留めつつ、古典的な美しさが香る一句になったと思う。

夏柳銭湯の客あたま剃る          矢島 広

 常連客がぼちぼち来始めたまだ明るいうちの銭湯を思い浮かべた。開けた窓から風にそよぐ柳が見える。洗い場で坊主頭を大事そうに撫でながら、剃刀で器用に剃る男になんともいえぬ味がある。絶好の材料に出会ったら、表現に小細工は要らないようである。