鷹の掲載句

主宰の今月の12句

離陸機に空の勾配夏来たる

メーデーや橋渡るとき旗なびく

葉桜に働く袖を捲りけり

子の部屋も在宅勤務夏はじめ

シーツ干す妻の 一尋夏柳

かざす手にしたがふ肘や更衣

郷愁をまだ知らぬ子と苺食ふ

芍薬を風こづきゆく長屋門

沢越ゆる渡り廊下や河鹿鳴く

飯すめば夜空に響く河鹿かな

明くる朝耳の真珠に緑さす

花束の薔薇は頰寄せあふ如く

(「俳壇」六月号、「栴檀」五月号発表句を含む)

今月の鷹誌から

推薦30句

群れ咲きてほのと 水気や著莪の花     

おいしいとひとり言いふ新樹の夜     

白扇や棋士の座礼の高爽と        

豆飯に雛僧の笑みさびしけれ       

春の蚊やまどろむ妻のふくらはぎ     

口開けて啼かぬ烏や花辛夷        

猟期果つ岩に見下ろすU字谷       

ペンギンが水に羽ばたく夏はじめ     

望潮破船のごとく町老いて        

春愁や流木に蠅群がれる         

登山小屋歩き疲れし靴ならぶ       

甲板に半球の空青葉潮          

零歳の桜百回分の一           

峰入や剃刀傷の青つむり         

引払ふマンションの窓蝶過る       

奥坂 まや

喜納 とし子

志田 千惠

竹岡 一郎

砂金 祐年

中山 玄彦

林田 美音

西嶋 景子

平山 南骨

大西 朋

徳原 伸吉

高木 美恵

南 沙月

桐山 太志

家井 雪子

永遠を信じぬための桜なり        

顔寄せて棘ぬきくるる遅日かな      

花の雨瞼に熱く夢のこり         

豆飯や母のもてなす父の客        

帰りにはぺんぺん草を子と鳴らす     

鰊食ふ十を頭に五人の子         

朝焼の遙か主峰へ縦走す         

春分や曙光走れる相模湾         

パチンコのやめ時逃す春の暮       

蕗茹でて厨たちまちさみどりに      

アニソンは叫ぶ五月は青過ぎる      

照り返す轍の水や遠蛙          

春深し妻に先立つ友ばかり        

栓抜の尻に缶切桃の花          

蒲公英やポストの前の水溜り       

大塚 絵里香

たなか 礼

川原 風人

吉長 道代

落合 清子

寺島 きしを

美谷 邦章

伊藤 恵子

岸上 福市

富永 のりこ

大岩 しのぶ

吉成 イク

内田 ひろし

鈴木 之之

中野 すみれ

秀句の風景 小川軽舟

春愁や流木に蠅群がれる          大西 朋

 浜に流木が打ち上げられている。しらじらと乾きかけた木肌に蠅が群がり、朽ちた木の匂いに潮の香がからみつく。愁いに翳った気分を吹っ切ろうと海を見に来た作者が通りかかると、蠅がいっせいに鋭い翅音を響かせて発った。
春愁は近代俳句に生まれた魅力的な季語で「鷹」の投句も多いが、よいと思える句はけっして多くない。いちばん困るのは、何か悩ましいことを挙げて春愁を付けるもの。春になって理由もなく心が愁いを帯びるのが春愁なのであって、原因が特定されては春愁とは言えない。いちおう春愁らしくできていると思う句も、いかにも春愁らしく作った甘さが拭えない。もっと自分自身の心に踏み込んだ春愁が詠めないものか。すなわちこの季語をもっと攻めて、この季語の新しい表情を見せてもらえないものか。
 掲句はそのような私の日頃の憤懣を晴らしてくれた。なまなましい春愁だ。心の深いところまで侵している。その春愁に適う流木なのだ。嫌なものを見たと作者は思っただろう。しかし、そこに自分の心の中身を見定めた気がしていくらか落ち着いたのではないかとも思える。

おいしいとひとり言いふ新樹の夜     喜納 とし子

 丁寧に夕飯を作って一人で食べる。一人で来る客のための席を用意する飲食店も増えているから外食の場面でもよいだろう。しみじみおいしいと思って、「おいしい」とひとり言が出る。食べものや飲みものがおいしいのは人それぞれの感想だから、ひとり言でかまわないわけだが、どうやらそうではないらしい。「おいしい」は飲食を共にする相手に伝え、分かち合ってこそ一入おいしい。ひとり言が出て、ふいにその事に気づかされたのだ。
 寂しさを吹き払うように季語はすがすがしい。窓の外で新緑がさわさわと鳴る。明日もおいしいものを食べておいしいと言おう。そこに一人で生きる覚悟がうかがえる。

登山小屋歩き疲れし靴ならぶ        徳原 伸吉

 登山小屋の入口の棚に今日一日の行程を終えた登山靴が並んでいる。中には土間に脱ぎっぱなしになった靴もある。岩の露わな山道を登り続けた靴は擦り傷だらけで、靴紐を緩めたまま、あえぐようにゆがんだ口を開けている。歩き疲れたのはその靴を履いた登山者だが、靴もしこたま歩き疲れている。擬人化が嫌みでない。登山靴のありようをまざまざと見せてくれる。
 徳原さんの俳句を見るようになってまだ三年に満たないが、最初から上手い作者だった。俳句らしい題材を俳句らしくまとめるセンスがある。初めはそのことに感心したが、しばらくするとその上手さがかえって自分に枠を嵌めてしまっているもどかしさを感じることが多くなった。そのもどかしさを振り払ってくれたのがこの句だ。擬人化に技巧はあるが、物をまっすぐに見て率直な言葉にした手応えがある。

朝焼の遥か主峰へ縦走す          美谷 邦章

 徳原さんの句から一夜明けた朝という情景である。登山者も登山靴も一夜の眠りをむさぼり英気を養った。今日の道程となる岩稜を一望すると、彼方に目指す主峰が曙光を受けている。句の調べがよい。「朝焼の遥か」と晴れやかに詠み出し、「主峰」はその姿さながらに語気鋭く、「縦走」には登山の足どりを思わせる重々しさがある。内容にふさわしい調べだから読み終えて充実感がある。

零歳の桜百回分の一            南 沙月

 歌の歌詞になりそうな勢いのあるフレーズだ。零歳のわが子に初めての桜を見せる。百歳まで生きればこれが百回分の一の桜だ。これから百年の間には医療が進んで百年生きるのが当たり前になるかもしれない。しかし、それまで世界が無事に続いている保証はない。母である自分にその百回を見届けることはできない。この句は母の祈りでもあるのだ。

永遠を信じぬための桜なり         大塚 絵里香

 南さんと同世代の大塚さんのこの句は、同じ桜を詠いながら、現代に生きる覚悟を大塚さんらしい辛辣な断定で示す。桜は咲き満ちるや否や忽ち散る。古来その様は私たち日本人の無常観を象徴するものとなってきた。その一方で、無常の現世の先に極楽浄土の永遠を願ったのだ。作者はそうして現世に目をつぶることを拒む。世界がこの先どうなるかなど誰にもわからない。だからこそ今この時から目を逸らさない。桜は非情にも毎年私たちにそう教え諭すのだ。

照り返す轍の水や遠蛙           吉成 イク

 一読して雨上がりのまぶしさを感じる。畦道の轍に溜まった水が照り返し、水田から蛙の声が聞こえる。かつて推薦30句に採った吉成さんの「畦道をふさぐ軽トラ豊の秋」を思い出す。掲句の轍は農作業に通う軽トラの轍なのだ。日々の暮らしの回りで繰り返される変わらない風景。こういう句を読むと永遠を信じてみたくもなる。