鷹の掲載句
主宰の今月の12句
彼我
ぞろぞろと松浮かれたつ良夜かな
日の差せば応へて白し蓮の露
淡あはと信心はあり茶立虫
大陸を離れて久し虫の島
虫聴く国闘はす国彼我の秋
スチームや
海上の虹きれぎれに時雨れたり
熱燗や会社売られてスト終る
霜焼の子は童謡に今も住む
忘れ物センター遠し年の暮
一番星出でて玄関掃納
(「俳句」十二月号発表句より)
今月の鷹誌から
推薦30句
落ちさうにおほきな月や発病す
冬蝶に砂丘のやうな男の眼
萩活けて衝立の仮名風のごと
末枯や廃墟明るく横たはる
涌き水の音なき水面鶲来ぬ
鶏捌く女のめがね秋高し
食べて寝るだけの一泊紅葉山
朝寒や女を知らぬ洗濯機
はればれと案山子荷台に足のばす
夜神楽や足踏み鳴らす大き影
鳥籠のやうな胸郭今朝の冬
半数は移住者家族芋煮会
わき水のやがてせせらぎ竹の春
元少年少女漂ふ花野かな
星飛ぶやもぐら叩きの闇バイト
兼城 雄
大石 香代子
黒澤 あき緒
大野 潤治
中島 よね子
岸 孝信
上田 鷲也
松田 りょう
住友 良信
中野 悠美子
中村 一烏
黒﨑 舞句
中野 こと子
中村 恵理子
石鉢 串拙
申し分なき青空や柿吊るす
林檎煮る悲しきニュース次から次
綿虫や待つとはおのが息聞くこと
書棚ごと譲りし絵本小鳥来る
秋ともし家族揃へば飯よそふ
駄菓子屋の婆の暗算文化の日
若やぐか老けるか縞の秋袷
鬼やんま水面ひびかせ旋回す
捨案山子殴られし如草に伏す
今日もまた富士を見て居る案山子かな
吾が血筋絶えなば絶えね穴惑
文化の日絵筆一途に老いにけり
芋虫のもつちもつちと進みをり
うそ寒や隅へ隅へと綿埃
むくの群何欲る夕日混ぜ返し
古屋 德男
赤井 正子
氣多 驚子
石原 由貴子
佐野 恵
中山 美恵子
たなか 礼
橘田 麻伊
堀口 みゆき
鳥海 壮六
瀬下 坐髙
古川 鴾
大西 朋
木佐 祥子
作田 きみどり
秀句の風景 小川軽舟
朝寒や女を知らぬ洗濯機 松田 りょう
ユーモアの句としてなかなかのものである。一人暮らしの若い男(作者自身だと想定しておく)の住まいに置かれた洗濯機。女物を洗濯したことは一度もない。それを「女を知らぬ」と言ってのけた。男物ばかり洗わされる洗濯機が気の毒にも思えてくるが、女という存在を知らぬ洗濯機自身はその境遇を自覚することもない。
「女を知らぬ」が女性との性的経験のないことを指す俗語であることが、この句のユーモアの味を深めている。朝寒に震える若者とアパートのベランダ置きの洗濯機がいじらしく浮かび上がる。去年「恋のなき胸に柚子湯の柚子あたる」と詠んだ作者であることを思えば、掲句はその青春詠の続編とも見える。下卑た印象を与えかねない内容を可憐に見せてしまう腕はしたたかである。
落ちさうにおほきな月や発病す 兼城 雄
月の描写と「発病す」という事情の取り合わせだが、中七の「や」で切られた裂け目が深く暗澹として、読者は「発病す」の結末で突き落とされたような気分になる。一般的な取り合わせだと、「発病す」の事情を読者に伝わるように記し、季語の月を取り合わせる。それに対して、この句は月を描くことに執心しながら、誰の発病なのか、何の病気なのか、「発病す」の子細には一切触れない。結果として、月の描写だけが発病の事情や作者の心境を窺わせるものになった。
「発病」と前書のある田中裕明の著名な句がある。
爽やかに俳句の神に愛されて 田中裕明
田中は五年後に自分の命を奪うことになる白血病を、俳人たる自己を完成させるための運命として潔く受けとめようとしている。田中が俳句の神の子のような表情を浮かべているのに対して、掲句は発病の不安と恐怖を受けとめるのに精一杯だ。しかし、それを俳句に結実させる精神は、状況を冷静に眺めている。
元少年少女漂ふ花野かな 中村 恵理子
花野に吟行に来た。今は年をとっていても、かつてはみな少年であり少女であった。野を駆け回った少年少女の日々が甦る気がするのだ。童心に返るなどと常識的なことを言っては何の新鮮味もないが、「元少年少女」が漂うという言い方には苦みを含んだおかしみがある。現実の肉体が消え失せてもなお、花野を漂っていそうな気がする。
鳥籠のやうな胸郭今朝の冬 中村 一烏
胸郭は心臓と肺の器である。広辞苑には「胸椎・肋骨・胸骨によって籠状になった胸部の骨格」とあるから、「鳥籠のやうな」という比喩は独創的という訳でもないのだが、「今朝の冬」を取り合わせて詩情がふくらんだ。立冬の朝、つめたく澄んだ空気をいっぱいに吸い込んだ胸郭が想像される。鳥の飛び交う青空が胸郭の中をぽっかり占めているイメージが私の頭に浮かんだ。
吾が血筋絶えなば絶えね穴惑 瀬下 坐髙
百人一首の式子内親王の歌「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」のパロディである。内親王が忍ぶ恋の苦しさから、わが命よ、絶えるものなら絶えてしまえ、と詠ったそのフレーズを中七にそのまま借用し、血筋を継ぐ者のいない嘆きに転じてみせた。絶えてしまえと言いながら、季語の穴惑には未練と執着が見え隠れする。
冬蝶に砂丘のやうな男の眼 大石 香代子
わかりやすい比喩ではない。男の眼が砂丘のように見えるとは考えにくい。理解できないまま不思議と心惹かれる比喩である。この句を読むと、冬の砂丘をひらひら飛ぶ蝶をじっと見つめる男の姿が浮かび上がる。現実のどこに向けても男の眼には索漠とした砂丘しか映らないのだ。冬蝶はそこに囚われたまま、どこへも逃げられそうにない。冬蝶と砂丘と男の眼という素材を、論理的でないレトリックで結びつけ、一つの詩的イメージを得た句とでも言えようか
うそ寒や隅へ隅へと綿埃 木佐 祥子
日常の取るに足らない材料でも、目が利いていれば詩になる。部屋の綿埃まで詠まなくてもよさそうなものだが、「隅へ隅へと」が的確で、苦笑を誘う。それにしても、綿埃というやつは、数日掃除しないだけでどうしてああも目につき、かたまりになって部屋の隅に身を潜めるのだろう。掲句には擬人法の味もあり、季語も程よく働いている。
涌き水の音なき水面鶲来ぬ 中島 よね子
わき水のやがてせせらぎ竹の春 中野 こと子
対をなすようなすがすがしい自然詠。音もなく満ちた湧き水も、そこからあふれてせせらぎをなす湧き水も、それぞれ明瞭に描かれ、季語が彩りを添える。手を替え品を替え詠まれてきた材料でも、あらためて作者自身が感動し、作者の言葉で表されたものには、掬すべき感興がある。