鷹の掲載句

主宰の今月の12句

明王の赤き肉身秋暑し

巡礼は洪水引きし花野ゆく

復旧のあてなき橋や竹の春

水底まで月光青き渡海かな

きつつきよ柩の釘を打ちに来よ

乳母の里なる太秦に牛祭

毬割れて栗三尊のふつくらと

陶工の筆の走りや火焚鳥

真葛原統べゐし葛根掘り上げぬ

ぎんなんに鼻の慣れたるフリマかな

ソムリエの語彙あふれけり星月夜

蚯蚓鳴き物流倉庫巨大化す

(「俳壇」十一月号発表作品を含む)

今月の鷹誌から

推薦30句

少年老い易く瓢の実鳴り難し       

身に入むや記念写真の生残り       

夕焼見て言ふいつかとかきつととか    

がうがうと大樹の梢月明裡        

秋風や商店街に小鳥買ひ         

川の匂ひ海に辿りて鮭来る        

流星や老後なき世の労働者        

空駆くる馬車や皇帝ダリア咲く      

一文字に口を結びて鮎下る        

あさがほや嬰児のことば母音から     

辻々に聖書の言葉秋出水         

生き甲斐の我が家の松の良夜かな     

紫に暮るる遠島男郎花          

かさと来てこそと隠れし小鳥かな     

良夜なり食卓囲む椅子四つ        

加藤 静夫

布施 伊夜子

南 十二国

景山 而遊

辻内 京子

筒井 龍尾

坂本 空

沖 あき

西山 純子

藤澤 憼子

安齋 文則

髙安 美三子

西  千冬

小野 展水

近藤 暎子

蜩や浴室の窓暮れゆける         

石叩雨の甲板走りけり          

夜行バス故郷の月がついて来る      

消えさうに薄き詩集や小鳥来る      

鯖雲へブルドーザーのから吹かし     

大風の影無く吹ける秋思かな       

雲迅き大禍時の案山子かな        

螻蛄鳴くや叱りつけたき私小説      

東京の地下は蟻の巣震災忌        

夕涼や母の微睡む父の椅子        

ちちろ鳴く石段残し墓終ひ        

秋深しダンクシュートに連写音      

秋風や誰も返信せぬ弱音         

どこ迄もついて来る月奥三河       

古着屋のギロチン窓や蔦かづら      

米熊 鬼子

越智 大地

竹岡 佐緒理

兼城 雄

今岡 直孝

山中 望

近藤 洋太

斉藤 扶実

筑紫 太郎

越山 やよひ

中村 ヤスカズ

六花 六兎

武田 杯嗣

藤江 みち

石井 秋沙

秀句の風景 小川軽舟

辻々に聖書の言葉秋出水          安齋 文則

 日頃なんとなく視界に入っていたものが、急にありありと意識に上ることがある。この句の「聖書の言葉」もそうだ。黒地に白と黄の文字で「キリストは墓から甦った」「死後さばきにあう」「終りの日に神の前に立つ」といった短い言葉が記された看板。私も昔から目にしていたと思う。子供心に畏怖を覚えたものだが、見慣れてしまえば風景の中に溶け込んで意識することもなくなる。インターネットで調べると、あの看板は宮城県に本部のある聖書配布協力会というキリスト教団体が作成、掲示しているそうだ。作者の住む二本松あたりにも多いのだろうか。
 台風による豪雨で川が氾濫した。町も田んぼも一面水浸しになった辻々であの看板が否応なく目に入る。洪水で風景が一変したため、気にも止めずにいた聖書の言葉がにわかに生気を帯びる。洪水の災禍がまるでキリストの預言の実現したように見えてくる。「秋出水」の季語がこのような形で生かされたことに驚く。

生き甲斐の我が家の松の良夜かな      髙安 美三子

 現在の京都の舞妓は京都以外の出身者がほとんどのようだが、髙安さんは祇園に生まれ育って舞妓になった生粋の祇園の人。女将として築百年以上の茶屋を守っていたが、隣家からの貰い火で全焼してしまった。ところが、玄関の立派な松は焼けなかった。松が残ったことにどれほど励まされたことだろう。再建なった店でも松は変わらず枝を広げている。
 以上の事情は知らなくとも掲句は雄々しい松の影を浮かべた良夜の風情を存分に伝えてくれるが、知ればまた「生き甲斐の」に万鈞の重みを感じることができる。

夜行バス故郷の月がついて来る       竹岡 佐緒理

 夜行バスで故郷を発つ。故郷を離れて別の土地で暮らすのか、あるいは久しぶりに帰郷した何日かの後にふだんの生活に戻るのか。バスの窓から月が見える。バスが走り出してもどこまでも月がついて来る。
 「月がついて来る」というのは今更俳句に詠んでも仕方ない常識的なことがらである。ところがそれが「故郷の月」だとなると急に実感を帯びる。ついて来る月はどこまで行っても故郷の月なのだ。まるで故郷が作者に追いすがるようにも見える。

どこ迄もついて来る月奥三河        藤江 みち

 前の句と同じく「ついて来る月」だが、この句も類想感を拭い去って新鮮に見えた。はるばる奥三河までついて来たことだよと興じて旅情を高めてみせた。仏法僧の鳴く鳳来寺を思い出させる奥三河の地名も効果的だ。
詠んでもしょうがないと思われる材料も、使い方次第でものになる。竹岡さん、藤江さんの句から学ばされた。

大風の影無く吹ける秋思かな        山中 望

 雄勁な句である。「影無く吹ける」の中七から大風の吹き払う広い地面が、そしてその上の広い空が感じられる。大風以外のすべてが捨象された茫漠たる空間が広がる。虚無的ともいえるその広がりを、作者の秋思の一点が支えている。「影無く」と言いながら、作者の心には陰翳を落として吹き過ぎたと思える。

秋風や誰も返信せぬ弱音          武田 杯嗣

 インターネットとSNSの時代になって、面識のあるなしに関わらずさまざまなコミュニケーションの場が生まれた。この句の弱音は、SNSでつぶやかれたものか。あるいはLINEのグループの一人が漏らしたものか。しかし、その弱音に返信する人はいないまま、あわただしく飛び交うやりとりにたちまち埋もれてしまった。会って話すことができれば親身になって聞いてもらえたのかもしれない。弱音を一人で抱えたままの人が、どこかで人知れず秋風に吹かれている。

ちちろ鳴く石段残し墓終ひ        中村 ヤスカズ

 「墓じまい」という言葉が使われるようになったのはいつ頃からだろう。その必要に迫られ、実際に墓を処分する人が増えるにつれ、言葉が必要になったのだ。「鷹」では二〇一五年三月号に次の句がある。
 

東京へ移す遺骨や山眠る天地わたる

 
墓立つる寸土を得たり笹子鳴く
     
 この頃はまだ「墓じまい」が一般的ではなかったのか、あるいは新語に飛びつくのを作者が嫌ったのか。今では嫌うまでもないほど一般的になっただけに、あえてその言葉を避けることもないが、作者自身の墓じまいだと読者に感じさせるためには工夫が必要だ。
 掲句の場合は、上五中七の丁寧な描写がよかった。田舎の山裾の墓地で、石段の先にはもう作者の先祖の墓しかない。墓じまいを済ませて墓参に通う人がいなくなれば、この石段も草に埋もれ、蟋蟀が鳴くだけの茂みになる。そのことがこうせざるを得なかった作者の心境を窺わせるのだ。