鷹の掲載句
主宰の今月の12句
今月の鷹誌から
推薦30句
魚は氷に上り
投げ餅に手のわらわらと遠霞
痩せ犬に余り毛糸で編むチョッキ
春を待つ埴輪の兵の幼顔
狛犬のふぐり幼し梅の花
小綬鶏の声高き朝同期の死
春ショール回送電車暗く過ぐ
芋植ゑて東京の子に金送る
恋猫に二日続きの氷点下
早春の宝塚駅友を呼ぶ
封を切るやうに囀はじまれり
記憶いつも同じ寒さに突き当たる
畳み方違ふセーター重ねある
人形に精巧な耳寒波来る
揮発油は瓶にしやらしやら春浅し
岩永 佐保
岡本 雅洸
志田 千惠
西山 純子
桐山 太志
やうち 海
小竹 万里子
橋本 耕二
日髙 まりも
清田 檀
小山 博子
清水 右子
本多 伸也
宮本 素子
桑名 星精
転職に必要な嘘うすごおり
外交の母に鍋焼うどんかな
薄氷や十ほど若き死化粧
春闘や安全靴を磨く朝
雪深し古里は皆早く寝る
水仙や女性患者の毛糸帽
保護犬の庭に馴染めりクロッカス
城址の松吹く風や小水葱摘む
引き合うて地球と月や都鳥
鶴帰る山高ければ谷深し
路傍の雪解けて花束現れぬ
海原をのんと持ち上げ春の波
流氷や獣脂滾らす吊りランプ
喧騒が乱反射する冬の空
夜勤明けコンビニまでの霜踏めり
大塚 絵里香
矢野 しげ子
栗山 游糸
神成 石男
遠藤 蕉魚
矢島 広
小籠 政子
河西 瓢一
篠塚 雅世
田代 ひろえ
平賀 なつめ
野田 悠美子
此雁 窓
松田 りょう
中尾 謙三
秀句の風景 小川軽舟
小綬鶏の声高き朝同期の死 やうち 海
学校の同期、職場の同期──同期という言葉には、「同期の桜」を持ち出すまでもなく、肩を組んで人生をともに歩んだ仲間という色合いが濃いように思う。それだけに、同期が一人、また一人と死んでいくと、おいてきぼりを食ったような言い知れぬさびしさを感じることだろう。それは自分たちの時代の終わりが近いというさびしさかもしれない。小綬鶏のけたたましい鳴き声が作者の心情をうかがわせる。
句会でこの句を採ったときの感想が以上である。このたび再読して、そういえば小綬鶏の鳴き声の聞き做(な)しは「ちょっとこい」だったと思い出した。草葉の陰からあの世の同期が「ちょっとこい、ちょっとこい」と呼びかける。作者が「もうちょっと待ってよ」と心の中で答えるようで、悲痛なばかりでないこの句のユーモアを感じてあらためて惹かれた。
畳み方違ふセーター重ねある 本多 伸也
セーターの畳み方は人ぞれぞれである。洋服屋のショーケースにあるようにきれいに畳む人もいれば、いい加減に畳む人もいる。畳み方を親に躾けられた人もいれば、自己流の人もいる。そこにはその人の性格や生い立ちが現れる。
他人同士が一緒に暮らすとは、畳み方の違うセーターを重ねることだという発見がこの句にはある。畳み方が違っても直したりはしない。落ち着きの悪いまま重なって、それでも崩れはしないセーターに、人生のパートナーを得ることの意味が見えるように思った。
狛犬のふぐり幼し梅の花 桐山 太志
俳人は吟行というと決まって神社や寺に出かけて古くさいものばかり詠んでいると湘子先生がよく嘆いていた。狛犬も古くさいものの一つだろう。それでも丹念に観察すれば思わぬ発見があるらしい。句会でこの句を見てほほえましいとは思ったが、狛犬のふぐりなど見たことがないと言うと、作者はちゃんと見ればある、阿形の狛犬には男根が、吽形の狛犬には女陰があるのだと反論する。神社によって違いもあるようだが、私はそこまでつぶさに狛犬を見ていなかった。湘子先生の叱声が聞こえるようで近付けなかったのだ。
もっとも、狛犬に男根や女陰があるということだけでは知識の披露に終わって俳句としてはそれほどおもしろくもなかっただろう。そのふぐりを幼いと感じ、梅の花を取合わせたところに作者の新面目がある。
海原をのんと持ち上げ春の波 野田 悠美子
波が浜へ寄せる様は、どれほどの俳人が眺め、そして俳句にしてきたか知れない。だからそうそう新しい発見があるはずもないが、この句の中七には驚かされた。穏やかな日和の海原がゆるやかにうねっている。そのうねりが持ち上がるように高まって波頭になる。その勢いはまさに「のんと持ち上げ」だと感心したのだ。春を迎えた作者の心の昂りが引き寄せた写生の言葉なのではないか。
揮発油は瓶にしやらしやら春浅し 桑名 星精
思いがけない擬音語・擬態語は、今までぼんやり見えていたもの、ぼんやり聞こえていたものを、突如はっきり感じさせてくれる。あたらしい擬音語・擬態語を見出す能力は、一首の感性と言ってよいだろう。この句の「しやらしやら」には、目と耳を濯がれるような新鮮さを感じた。
流氷や獣脂滾らす吊りランプ 此雁 窓
「獣脂滾らす」に迫力がある。アザラシの脂だろうか。小さな小屋の中を照らして炎が揺らめく。外からは風の音に混じって流氷の軋む音が聞こえる。北海道に流氷見物に出かけても、こんな情景には出会えないだろう。勝手ながら、海外旅行でイヌイットの集落を訪ねての嘱目だと読んでみた。ただし、それを一句にするに当たっては、背景を消し去り、ひたすらランプに目を凝らしたのだ。そうすることで、読者はオホーツク海に面する北辺の地に入植したかつての日本人の苦労を目の当たりにする気がするのである。
保護犬の庭に馴染めりクロッカス 小籠 政子
何かの事情で保護された犬を引き取った。犬は怯えて身を固くしていたが、クロッカスの咲く春先になって、ようやくくつろいだ様子も見せるようになった。「庭に馴染めり」が巧いと思う。落ち着ける居場所は得たものの、人間に対する警戒心はまだ解けきっていないのだ。それももうしばらくの辛抱だろうと見やる作者の目がやさしい。
外交の母に鍋焼うどんかな 矢野 しげ子
商品の販売か、保険の勧誘か、一日足を棒にして営業に回る仕事である。外交という言葉自体に昭和の響きがある。事情があって母が働かなければ家族を養えなかったのだ。外交の合間に啜る鍋焼うどんが母の数少ない慰みだった。幼い作者の目に映った母の姿は、ひとり作者の母であるにとどまらないなつかしさを湛えている。