鷹の掲載句
主宰の今月の12句
今月の鷹誌から
推薦30句
ふるさとに良縁を得し賀状かな
東に西に殺伐たる世冬日輪
母の死後雑煮に餅がぽつかりと
風呂吹や夫にむかしの貸しがある
ほろろ打つ神社の杜の淑気かな
すき焼の玉子ふたつめマスオさん
室の花女はぐんにやりと眠る
ビラ配る主演女優や冬木の芽
年礼や浄瑠璃坂の上の月
雪消しや生きてゐるかとをとこ来る
人の世に名のあふれたり冬の星
普段着で庭に来てをり初雀
長靴の男と女火事場より
立看に未完の一詩凍てにけり
布施伊夜子
榊原 伊美
竹岡 一郎
岩永 佐保
森田 六波
永島 靖子
西村 五子
佐藤栄利子
斉田 多恵
加藤又三郎
小笠原英子
坂本 空
澤田 高雄
柄川 冴子
内海 紀章
新橋に始まる旅や冬うらら
寒晴や都電の見ゆる母の墓
海荒れのブイに降りむと冬かもめ
寒雷の熾火となりて吾に棲む
しあはせを競ふ団地の干蒲団
掛蕎麦に濡るる睫や雪の駅
七日粥旅番組に飽きにけり
石蕗の花父亡きあとの母若し
原野へと消ゆる四駆や雪女
春待つや子鹿のごときヨガ教師
切株に青空高し寒雀
新妻の春著に白し割烹着
夕方の三割引きや三葉芹
暗算の珠を弾きて悴める
いささかも戻らぬ齢晦日蕎麦
山田 友樹
三和 邦彦
河本 光雄
田上比呂美
𠮷田小威子
亀田紀代子
吉谷 知二
本橋 洋子
北崎 修
廣川 公
池森 京子
山口美惠子
内堀 順子
岩田 英二
後藤スマ子
秀句の風景 小川軽舟
すき焼の玉子ふたつめマスオさん 西村 五子
マスオさんは「サザエさん」の主人公サザエさんの夫である。フグ田の姓を変えずに妻の実家である磯野家に同居する結婚形態は「マスオさん現象」とも呼ばれた。経済的なメリットは大きいが、義理の両親には気を遣う。義理の両親もまた婿に気を遣う。そうして出来上がる空間が「サザエさん」のホームドラマとしての味わいになっている。
掲句は、望むらくは作者自身の家の「マスオさん」を描いたものであってほしい。すき焼は普通の家庭にちょっとした祝祭的雰囲気をもたらすものだ。義理の母がマスオさんに「玉子もう一つどうです?」と尋ねる。マスオさんは素直に応じて手許の小鉢にポトンと割り落とす。マスオさんの立場が「玉子ふたつめ」にほのぼのと浮かび上がる。
そんな家庭に次の句もよく似合う。
ここから十分「サザエさん」が一話できあがりそう。
普段着で庭に来てをり初雀 澤田 高雄
ふだんありふれたものでも「初」を付ければ正月らしくめでたい季語になる。
というわけだ。ただの雀も同様である。
しかし、掲句は、それは承知のうえで、それでもやっぱり雀は普段着のままだと見て取った。雀だって子細に見れば模様に富み、首の周りは襟のように白くて、なかなか見栄えもするのだが、何せいつも見慣れた姿のままだから普段着としか言いようがないのである。そんな雀の訪れを得て、いつもの庭の正月があらためてなつかしく眺められる。
雪消しや生きてゐるかとをとこ来る 小笠原英子
「鷹」の投句では初めて見たかもしれない。「雪消し」はそのくらいめずらしい季語である。大雪に閉ざされた雪国で親戚や知人の安否を尋ねて見舞うのが「雪見舞」。その傍題が「雪消し」で、食料を贈り合うのだという。
「生きてゐるか」は無遠慮だが、心根は優しい男なのだろう。小笠原さんには数年前、
という句もあった。男手はありがたいのである。
も同じ男だろうか。小笠原さんは、思わず口を衝いて出たような言葉で一句に俗世を匂い立たせることがしばしば。得がたい作風である。
ほろろ打つ神社の杜の淑気かな 森田 六波
「ほろろ打つ」は古語で雉や山鳥の鳴くことを言う。「けんもほろろ」の「ほろろ」である。もっとも鳴き声が「ほろろ」というのは解しがたく、羽ばたきの音だとも言う。
いずれにしてもこの句のいのちは「ほろろ打つ」だ。神社の杜で雉が鳴いた。作者の驚きが「ほろろ打つ」の言葉を得て、気品とふくらみのある正月の空気を伝える句になった。新年詠にまわりくどい描写は要らない。内容はシンプルな方が、余白を満たす淑気が引き立つようだ。
ビラ配る主演女優や冬木の芽 斉田 多恵
学生演劇かその延長のような劇団なのだ。ふだんはコンビニの店員などしながら、下北沢あたりの小劇場を拠点に明日を夢見て稽古に励む。主演女優だって駅前でビラを配るのである。季語が凜としていてよい。斉田さんの句には既成の俳句らしさにからめ取られずに素材を選ぶ視線がある。その視線を大切にしてほしい。
室の花女はぐんにやりと眠る 佐藤栄利子
春待つや子鹿のごときヨガ教師 廣川 公
描き方は対照的だが、どちらも女性の姿態を鋭く捉えていると思った。佐藤さんの句の女は、ソファーで不自然な姿勢も厭わず眠りこけているのだろう。その無防備さが挑発的ですらある。廣川さんの描いたヨガ教師の体は、しなやかだからこそ肘や膝の尖りが際立つ。そんなところが子鹿の姿に通うのではないか。観察の利いた比喩なのだ。
東に西に殺伐たる世冬日輪 榊原 伊美
この句の「東に西に」は、どこもかしこも到るところでといった意味合いのいわば成語だが、「冬日輪」を置いたことで成語以上の手応えを生じた。太陽は東から昇り西へ沈む。その太陽の視点から見下ろす寒々とした世界の到るところで、という印象をもたらすからだ。
かつて東西冷戦という言葉があった。世界は資本主義国と社会主義国に分れて一触即発の危機にあった。一九九一年にソ連が崩壊して冷戦の時代は終わったが、それで世界がすっかり平和になったわけではない。明確な対立軸を失くしたまま、世界中にかえって混沌とした不協和音が広がっている。グローバル化した時代の不安な世相をもこの句が連想させるのは、やはり「冬日輪」の効果だろう。