鷹の掲載句

主宰の今月の12句

若葉して時計の時間みづみづし

赤松の林あかるき鹿の子かな

駅ごとに駅前はあり風薫る

紫陽花に棲むとも見えぬ雨戸かな

突掛けに出て紫陽花に猫探す

五月雨や抽斗引けば母にほふ

ヒュッテより神官と巫女山開

仏法僧高野聖に谷深く

駆落ちの次の場面の蚊遣かな

西日中刑事が裏を取りに来し

合併に社名変りし団扇かな

風鈴やレシピ材料二人分

今月の鷹誌から

推薦30句

古本に昭和の裸婦や火取虫

紫陽花や爪先で履く女下駄

棒グラフ一本低き梅雨入かな

サイダーに子役の休み時間かな

噴水や記憶の母のふいに黙す

答辞読む卒業生のピアスかな

父の日の父の肩持つ夕餉かな

夜涼なり東京やはらかく匂ふ

花栗や平らに寝かす負んぶの子

炎昼や人型の的起き上り

声残る電話切りたり夕薄暑

浜晩夏首突き出して壜埋まる

男娼のライター借りる夕立かな

父の日の銀座木村屋父を待つ

掌に受けて春雪熱き二十歳かな

岸  孝信

桐山 太志

横沢 哲彦

佐竹 三佳

川原 風人

森田 六波

嶋田 文江

植苗 子葉

富永のりこ

筒井 龍尾

天地わたる

西山 純子

三輪  遊

寺島きしを

儀賀 洋子

手を挿して泉に我を知らせたり

帰りたし母の待ちゐる春祭

早苗田に空が映れば空の旅

グッピーの増えて末つ子家を出る

尼寺や孟宗竹の子沢山

炎天に延ばしたる手の捕らはれし

夫と行く青春映画ソーダ水

空映す瞳になりて青き踏む

散髪に大泣きの子や夏来る

父母の低き墓標や鳥帰る

冷し飴男やもめに人寄らず

野帰りの西日に晒す盆の窪

突堤の白き波音月涼し

マネキンの服剥ぎて買ふ立夏かな

鍵穴に合ふ鍵ひとつ新樹の夜

清水 右子

高橋 利夫

水元 遥香

藤 やす子

市東  晶

加藤よい子

近藤 絢子

小澤 悠人

井原 仁子

岡田 柚子

野尻 寿康

藤江 みち

山縣 福栄

山本佐惠美

葉石 康子

秀句の風景 小川軽舟

噴水や記憶の母のふいに黙す 川原 風人

 噴水のある夏の公園。幼子は母とともにある。まばゆい風景の中で母が急に黙り込む。それほど長い時間ではなかったに違いないが、子には途方に暮れるほど長かった。いつも微笑みを絶やすことなく自分を向いてくれる母が、自分の存在を忘れて考え込んだのだ。そのとき子は、母がいつも母であるわけではなく、一人の人間、一人の女であることに気づいたのかもしれない。母は我に返って、不安そうな子に微笑みかける。噴水の音がよみがえったように鳴り響く。
 作者は今、噴水を前にしている。噴水がきっかけになって記憶の奥の母の姿が呼び覚まされたのだ。ここに母はいないのだが、母の存在感は、実物の母以上になまなましい。あの母の沈黙は何だったのか。幼子は成長して、母の心情に思いを寄せることのできる年齢になった。

父の日の銀座木村屋父を待つ 寺島きしを

 父の日に父と銀座で待ち合わせをする。落ち合ったら晩飯をご馳走するのだ。父は銀座には明るくない。それでも木村屋なら昔から同じ場所にあるからわかるらしい。土産に持たせるあんパンを一袋買って店の前で父を待つ。父は甘い物好きなのだ。銀座木村屋の固有名詞がよく働いている。
 それにしても、寺島さんの年齢からすると父は相当の高齢である。この句は一昔前の出来事か。あるいは、父である作者を待つ子の姿かとも想像される。

父の日の父の肩持つ夕餉かな 嶋田 文江

 これは娘の立場から詠まれた父の日の句。父と母と娘が夕食を囲む場面か。父の日だというのに、父は母に責められて申し訳なさそうにしている。娘はその父の肩を持って母をなだめる。なんだか小津安二郎の映画にでもありそうな一場面で、食卓より卓袱台が似合う味わいである。

古本に昭和の裸婦や火取虫 岸  孝信

 昭和の裸婦となれば既に少なくとも三十年を経ている。古本屋をめぐると昔のグラビア雑誌を見かけることも多いが、色あせたような写真に過ぎた歳月を思わざるを得ない。映像の氾濫の中で暮らす現代の若者に、その刺激は牧歌的ですらあろう。それでも、そんな写真に興奮した若き日の欲情が思い出されて、思わず生唾を飲み込む。火取虫が未知の女なるものに焦がれた若き日の自分自身のようにも見える。

男娼のライター借りる夕立かな 三輪  遊

 きわどい素材である。男娼には女性相手の者もいれば、男性相手の者もいるのだろう。私は夕立の雨宿りで居合わせた男娼らしき様子の男から、煙草に火をつけるためにライターを借りたのだと穏当に読んだ。そう読ませる夕立の取り合わせがよい。雨垂れを眺めながら、思いのほか親切な男がそんな商売についていることに、この世の哀れを覚えたか。

炎昼や人型の的起き上り 筒井 龍尾

 射撃練習の的に人型のものがある。人を撃つための練習なのである。恐ろしいことだ。撃ち抜かれた急所に次々と穴が開く。蜂の巣のようになったら、また次の的がむっくり起き上がる。的にいくらでも替えがあるように、戦場の人間にもいくらでも替えがある。一人撃ち殺されれば次の一人が起き上がる。掛け替えのないはずの一人一人の人生は、そこでは黙殺される。黙殺することに心が慣れるまで、人型の的は撃たれ続ける。

早苗田に空が映れば空の旅 水元 遥香

 何で読んだのだったか、植田と青田の違いについて、神野紗希さんが、空が映るのが植田、映らないのが青田と説明していて、なるほどと感心したことがある。掲句の早苗田は田植えが終わったばかりの水の行き渡った植田である。神野さんの説明には感心したが、俳句で植田に映る空を詠んでも平凡である。しかし、この句は下五の「空の旅」の飛躍によって若々しい詩情が生まれた。気持ちよく解放される心が、田に映る空を通していきいきと描き出されている。

サイダーに子役の休み時間かな 佐竹 三佳

 大人に交じって演じる子役である。歌舞伎の子役を想像するのがいちばん似合うか。休み時間に楽屋でコップに注いだサイダーが出された。遊びたい盛りの年齢だろうに、行儀よく控えて、サイダーを飲み干す。サイダーが子どもにとって晴れがましい飲み物だった時代を思い出させる。

紫陽花や爪先で履く女下駄 桐山 太志

 女の家に転がり込んで、そのまま住みついてしまった男である。することのない無聊から、女が洗濯物を干すのに履く突っかけで庭に出てみた。踵のはみ出した突っかけはあぶなっかしい。女の足は思いのほか小さいのだ。雨に濡れた紫陽花の色をしみじみ美しいと思う。「爪先で履く」のいくらか誇張のある表現が巧い。