鷹の掲載句
主宰の今月の12句
都市美
フィン干して十一月の海静か
朴の葉の鳥の降り立つごとく落つ
アロエ咲き雨に小暗きサンルーム
運転士一人きり貨車枯野ゆく
凩の息継ぎ聞こえ吹きすさぶ
二階席混めば三階桜鍋
東京の都市美焼藷売とほる
冠雪は富士に始まり山なみも
涸れかけて溜池の水光りをり
雨寒し堂の暗さに慣れし目に
腿熱き電気ストーブ弔辞書く
パソコンに遺稿は眠り冬鷗
(「WEP俳句通信」一四九号発表句を含む)
今月の鷹誌から
推薦30句
綿虫や検死の兄の帰り待つ
ジャグジーの泡にまみれて初笑
マフラー巻き帰る場所なき眼をしたる
太陽が雲押し退くる枯野かな
老人がこの世にあふれ寒がりぬ
どんぐりを拾ふたびどんぐりと言ふ
一日を日記にしまふ室の花
うそ寒や小心者の旅仕度
芋の露農小屋丸く映しけり
目に見えぬ残り時間や木守柿
ゆふぐれの紅茶檸檬の種沈む
丹の川に沈む
思ひ出も呼吸してをり白障子
朝霧や仕事頭で歯を磨く
五線譜に夫の遺しし雪の音
芹澤 常子
髙柳 克弘
川原 風人
辻内 京子
穂曽谷 洋
佐藤 栄利子
池田 宏陸
小籠 政子
野尻 寿康
安東 洋子
押田 みほ
増永 賢一
齋藤 慎子
坂本 空
八木 峰子
薄紙の淡き光沢冬に入る
上下左右ひと住む暮らし注連飾る
この街がひとつの劇やクリスマス
風花や老犬抱きて家族葬
吞助のしみしみ
疏水引く城下の屋敷実南天
鷹匠に一人の弟子や昼餉どき
ひとつぶを象る露の力かな
冬の蝶風の誘ひにひらと乗り
杉戸絵の松に日の射す淑気かな
裸木の欅無言の行に入る
冬ざれや卓に一輪挿しの影
コスモスや吾子に親しき女の子
手のひらに乗るほどの夢山眠る
くるまつた毛布にひとつ隠しごと
伊澤 麻利子
佐々木 一朱実
島 涼五
近藤 しほみ
伊賀 美千代
林 瑞枝
福永 檀
佐藤 直哉
安達 喜雄
佐野 忠男
髙久 正
辻本 京太郎
山本 直子
島谷 宣夫
吉岡 朋子
秀句の風景 小川軽舟
一日を日記にしまふ室の花 池田 宏陸
日記とあれば、私たちはそれに続いて「書く」「記す」「つける」といった動詞が来ることを無意識に予期する。そういう言葉が来れば意識が滞ることなく読み進む。そこに予期しない言葉が来ると、意識がつまずいて立ち止まる。読み手の意識をつまずかせることは詩情を生む契機になる。「しまふ」はそんな言葉としてある。
とはいえ、現代詩によくあるように、読者の意識をあえて切断するような言葉ではない。ほんの少し立ち止まれば、その言葉がなぜそこに置かれたかすぐに解る。その穏やかさが俳句には程よいと思う。
人に知らせようとは思わないが、自分のために大切にしまっておきたい。そんな一日だったのだろう。季語の室の花に幸福感がある。
どんぐりを拾ふたびどんぐりと言ふ 佐藤 栄利子
立って歩けるようになり、少しずつ言葉を覚え始めた幼子である。どんぐりを一つ拾うたびに、覚えたばかりのどんぐりという言葉を発する。それは世界を認識できたことを確かめる儀式のようにも見える。物事を言葉によって認識し理解してこそ人間。幼子は動物から少しずつ人間になっていく。子育て中の俳句には、わが子の観察を通してさまざまな発見がある。単に幼子の愛らしい仕草ということを超えて、神々しささえこの句は感じさせる。
五線譜に夫の遺しし雪の音 八木 峰子
亡くなった夫の机辺に楽譜が遺されていた。五線紙にさらさらとスケッチでもするように音符が記されている。試しにピアノで弾いてみると、雪の降る音が聞こえた気がした。どんな音なのだろう。はかなげに流れる静かなメロディーが想像される。窓辺に立つ夫と一緒に降る雪を眺めているように作者には思われたか。
この句の季語である雪は実景でなくてもかまわない。作者の心の中に降る雪が一句に現れればそれでよい。
綿虫や検死の兄の帰り待つ 芹澤 常子
検死が必要な死だったのだ。綿虫がふわふわと横切って、遺族の緊張した空気がほんの少し緩む。兄の突然の死に戸惑う作者の心理が綿虫に投影されているようでもある。検死というふだん俳句で聞き慣れない言葉が置かれると、非日常の緊張感が生まれる。「帰り待つ」という親しげな下五に、兄を日常に取り戻そうとする家族の思いが感じられた。
鷹匠に一人の弟子や昼餉どき 福永 檀
昼餉どきという場面の見せ方に味がある。鷹を扱う訓練中は厳しい師匠であるに違いない。待望の弟子になんとか己の技能を伝承しようとする。弟子も鷹匠になろうと決意したからには一人前になろうと必死だ。しかし、昼餉どきになれば親子ほども年の離れた人間同士。訓練のときとは違う表情をお互いが見せる。鷹を傍らに止まらせ、冬日の下で弁当を広げる様が絵になる。
「鷹匠に一人の弟子や」という季語を含むフレーズが浮かんだ後、下五をどうするかは案外むずかしい。季語の取り合わせという手慣れたやり方ではなく言葉を引き寄せる力量が問われるところである。
冬ざれや卓に一輪挿しの影 辻本 京太郎
冬ざれとは冬になってもの寂しく荒れた様子を指す。したがって、「冬ざれや小鳥のあさる韮畠 蕪村」のように、戸外を対象とすることが多い。掲句はその季語を室内に用いたところが目新しい。一輪挿しは庭に咲くものを切ってきたのだと思う。その一輪によって、戸外の冬ざれが室内に持ち込まれたのだ。蕭条とした冬枯の景色が卓上まで続いているように思わせる。一輪挿しの影まで克明に描いたのがよい。卓上の眺めが作者の心境を表すものだとも思えてくる。
うそ寒や小心者の旅仕度 小籠 政子
「小心者の旅支度」に妙に現実味があっておかしい。旅慣れた人ではないのだろう。旅先で不自由するのが心配で何でもかでも鞄に入れたくなる。荷物は大きくなるばかりだ。着るものをどれだけ持っていけば寒い思いをしないで済むかがとりわけ心配の種。「うそ寒」の季語が働いている。
丹の川に沈む 鉄屎 神の留守 増永 賢一
鉄屎という言葉に存在感がある。鉄屎は鉱滓、すなわち金属を精錬したあとに生じる不純物の固まりである。丹の川とは鉄錆がついたように川底の石が赤く汚れているのではないか。そこに隕石のような異形の固まりがごろごろしている。
私はたたら製鉄の地を想像して読んだ。その後作者に聞いたところでは、岡山の山中にある廃業して久しい銅山とのこと。この句はそういう説明を避け、情景だけを描ききって成功している。神の留守の季語が、古代に遡る生業の奥行きを感じさせる。