鷹の掲載句

主宰の今月の12句

多情多恨

立秋の球場に水撒く香かな

秋暑しホームベースの土払ふ

雨の打つビニールハウス盆帰省

桃供へ母の来し方うるほしぬ

拭いてまた汗滲む首蓮の飯

寒天を鍋に煮溶かす残暑かな

法師蟬柳を離れまた柳

秋燕ふためき飛べる蟬を追ふ

虫送り影が痩せたり太つたり

稲妻も多情多恨の夜なるべし

北大の処暑の木洩れ日栗鼠走る

秋風や貝掘つて食ふきたきつね

(「俳壇」七月号発表句を含む)

今月の鷹誌から

推薦30句

雁来紅旅のをはりの肌乾く       

病巣に骨身に暑さめり込めり       

舟揚げて貝殻軋る晩夏かな        

父となり我うすれゆく芒かな       

白髪の帰省子柱疵を撫づ         

何人も血のいろひとしいわしぐも     

雲海や宿坊を立つ行者講         

八朔や雀こぼれてプラタナス       

秋風や走鳥類に鉄の柵          

さやうなら蟻の会社のきりぎりす     

忽然と花野暮れたりフロイト忌      

天上の風青からん蓮の花         

浅沙咲く宗徒に朝の勤めあり       

海苔を切る鋏の音や今朝の秋       

電線の鳩と見てをり秋出水        

岩永 佐保

三代 寿美代

山下 桐子

川原 風人

本橋 洋子

南 十二国

勝島 公司

今野 福子

髙柳 克弘

小島 月彦

藤山 直樹

羽村 良

沖 あき

畠 梅乃

河西 飄一

九年母や海を見てゐる写生の子      

草蜘蛛の網ふんはりと雨を帯ぶ      

泣いて生まれ泣かせて逝きぬ蟬しぐれ   

林立の雷に見惚るや広重忌        

長き夜のとぎれとぎれに同じ夢      

二百十日煙草の箱に手が伸びる      

こほろぎや八雲の妻の単語帳       

月涼しアバターでなく我であり      

川筋の変はりし川原雪加鳴く       

梅雨明けや次々と読むバーコード     

夏盛ん白き吐く冷凍魚         

夕月にちらかる雲や虫の声        

電気喰ひ都市輝けり渡り鳥        

かなかなや古本市にプラモデル      

上巻と下巻のあはひ虫の声        

金子 三津子

西 千冬

澤村 五風

高木 美恵

近藤 洋太

中野 悠美子

高橋 しき子

髙山 圭子

大滝 温子

中島 奈々子

笹倉 鳥馬

伊藤 榮子

筒井 龍尾

羊 九地

西村 五子

秀句の風景 小川軽舟

さやうなら蟻の会社のきりぎりす      小島 月彦

 『イソップ物語』の「アリとキリギリス」を踏まえていることは言うまでもない。アリのようにこつこつ働く社員の集まる会社に、キリギリスのように歌ってばかりの社員がいた。会社を去ることになったその社員は、会社から追い出されたのか、それとも会社を見限ったのか。「さようなら」は誰が誰に向けて発したのか。
イソップの教訓に従えば、やがて冬が来てキリギリスは飢え死にする。しかし、その教訓は正しいのか。この句は、バブルの時代とその崩壊、そして長い日本経済の低迷を会社員としてつぶさに見てきた作者ならではの異議申し立てなのではないか。バブル崩壊に懲りて保守的な経営を続けた日本企業は、三十年も停滞を続け、世界の経済発展から取り残された。それは未来に向けた革新的な夢を歌うキリギリスをアリたちが潰してきたからではないか。スティーブ・ジョブズもイーロン・マスクも日本からは生まれなかった。
 掲句のキリギリスは、キリギリスとしての使命を果たすべく、アリの会社を見限るのだろう。今さらアリから変われない作者は、彼を我がヒーローとして「さようなら」と見送るのだ。いや、もしかすると、彼は会社に別れを告げる作者自身なのかもしれない。

月涼しアバターでなく我であり       髙山 圭子

 アバターとはインターネット上に構築された仮想空間で本人の代わりに行動する分身。だいたい漫画のキャラクターのような容姿をしている。仮想の街で買物をしたり、仮想の世界旅行をしたり、居ながらにして私たちの行動の範囲が飛躍的に広がる。この仮想空間をメタバースと呼び、メタバースが世界を変えると喧伝されたものだが、このところ熱気が少し冷めてきた感がある。
この句の作者は家の縁側の夕涼みで月を見上げている。どこへも行けなくてかまわない。アバターではない自分自身でこうしているのがよい。「我であり」に安らぎがある。

上巻と下巻のあはひ虫の声         西村 五子

 長編の上巻を読み終えた。続きが気になって矢も楯もたまらず下巻を手に取ることもあるだろうけれど、作者はいったん気持を静めて、それから下巻に向かいたいのだ。上巻をしばし反芻し、下巻の展開を想像する。さっさとあらすじだけ知りたがるタイパの時代だが、この句のような読書の時間の味わい方に共感する。虫の声が一際なつかしく感じられる。

父となり我うすれゆく芒かな        川原 風人

 男性の育児休業取得が奨励されている。男性は会社で働き、女性は家で子育てをするという役割分担はもう過去のものだ。作者も長女が生まれて育休を取り、しばらく職場を離れて妻とともに子育てに励んだ。「父となり我うすれゆく」はそんな時代の感慨を詠って新しい。子育てとは自分だけの領域を明け渡してゆくことなのだ。風に揺れる芒はその心許なさを表しているのかもしれない。しかし、父親という新たな領域をやがて統合して、一歩成長した「我」が築き上げられてゆくのだ。

忽然と花野暮れたりフロイト忌       藤山 直樹

 精神分析の創始者であるジークムント・フロイトが亡くなったのは一九三九年九月二三日。花野の季節である。
作者の藤山さんは、フロイト直系の精神分析家だ。フロイトの様式通り、カウチに横たわる患者の枕元の椅子に座って話を聞く。「頭に浮かんだことをしゃべってください」──語らいながら患者の自由連想を促し、やがてその心の無意識の領域に分け入る。
この句の花野は精神分析のメタファーなのではないかと思った。患者の心の中に広がる花野。この先まで進めば大切な何かに行き当たりそうだと思えたところで、忽然と花野は暮れてしまった。残った夕闇が静かだ。

浅沙咲く宗徒に朝の勤めあり        沖 あき

 大寺の朝。宗徒には勤行はもちろんのこと、本堂や庭の掃除、御仏の供え物などさまざまな勤めがあるに違いない。宗徒という言葉は、一般的には信者全般を指すが、特に浄土宗では僧侶になる前段階の入門者を呼ぶ。その宗徒たちの立ち居振る舞いがすがすがしく見渡せる。私はこの句の季語にとりわけ惹かれる。境内の池に咲くのだろう。胡瓜の花に似た黄色い花には、蓮や睡蓮とは違った優しさがある。その風情がこの句の眺めそのもののなつかしさになっている。

雲海や宿坊を立つ行者講          勝島 公司

 行者の白装束で吉野の蔵王権現を詣でた一行。早暁に宿坊を立ち、峰入に向かうのだろうか。険しい巌の下には雲海が広がる。現代になっても、これは役行者の時代と変わらない荘厳な風景である。句材は新しいものではない。句の型も古めかしい。それでも、型の力をなんら疑わず詠み切ったこの句は、俳句を読んだ満足感にしばし浸らせてくれる。