鷹の掲載句

主宰の今月の12句

青麦や大聖堂は遠く燃ゆ

書割の裏の木の香や夏近し

桜の実下校のチャイム町にひびく

駅弁は窓に買ひたし山若葉

筍のうつふんと掘りあげられし

手足浮く山椒魚の歩みかな

菖蒲湯を水から沸かす山家なり

母の日や市電の軋みなつかしく

母の日の仏壇に手を合すのみ

命日がダービーでよろこんでるか

ダービーの風塵と去る馬群かな

カレンダー大きく破り薔薇の朝

今月の鷹誌から

推薦30句

妻の雛今年も笛を落しけり

夏来る天のひかりを田に満たし

列聖を拒みて鳥に花ミモザ 

物忘るる母ありがたし花大根

筍を茹でる大釜火を奢り

半島の たんぽぽの絮吹けり 

麦飯や昔日本に社会党 

小町忌の月のかんばせ細りたる 

花菜雨父の独りをいま想ふ

はつなつや水平線は朝引かる

浸す手を水の越ゆるや根白草

夏蝶の翅美しく肩で閉づ 

遠浅のどこからが沖湘子の忌

流木に風の弔歌や月日貝

雪柳母の和裁に育ちけり

横沢 哲彦

南 十二国

髙柳 克弘

畠 梅乃

荒木 かず枝

前原 正嗣

加藤 静夫

西嶋 景子

佐宗 欣二

小島 月彦

新原 藍

林 達男

小石 たまま

𠮷川 典子

井上 京美

日本語に五つの母音さくら咲く

渦が渦押していく川卒業歌

蜷の道蜷に会うたるためしなし 

吊革に入れ替はる手や花の雨

山国の月に傷ある桜かな

春の雪辞令に広き余白あり

髭剃つて襟に付く血やメーデー歌

種牛にそはつく牧や斑雪山

校庭の桜へ五分夫の試歩

日に三度使ふ卓袱台昭和の日

ふらここや漕げばわたしを遡る

まつさらのYシャツの襟蝶生る

木の家を鳴らす電話や彼岸過ぎ

逢ひに行く白足袋濡らす花の雨 

握る手を手は覚えをり鳥雲に

伊澤 のりこ

藤澤 憼子

沖 あき

小林 恭子

藤山 直樹

宮本 素子

川原 風人

本橋 洋子

中山 智津子

片野 秋子

杉村 有紀

石川 休塵

清田 檀

西山 貴美香

天野 紫音

秀句の風景 小川軽舟

花菜雨父の独りをいま想ふ 佐宗 欣二

 見渡す限り静かな雨の降る風景。その底にぼんやり滲むように菜の花の黄色がある。窓から眺めながら、心はいつの間にか、もう亡くなって久しい父に向いている。
 母が先に死に、独り暮らしの長かった父なのだ。その父の気持ちが今になってわかる。それは、作者自身が同じ境遇になったからだ。独りにしておくしか仕方なかったのか。あの頃の父の胸中をもっと察してやればよかったと思う。作者は父の独りを思いやっているが、読者には作者自身の独りがしみじみと伝わる。
 小田原の指導句会で出会った句だが、以上の解釈に自然に導かれた。「父の独りをいま想ふ」の表現には曇りがない。だから解釈は揺らぐことがないのだ。この句の作者にふさわしい佐宗さんの名乗りを聞いて、つくづくそう思った。

妻の雛今年も笛を落しけり 横沢 哲彦

 結婚する時に妻が実家から持ってきた雛人形である。横沢さんの句に「へうたんも長女の恋も触れずおく」があったから、娘のために飾っていたのだろう。その娘も家を出て、雛人形はふたたび妻の雛になった。そして、娘がいなくても、それまでと変わらずに飾っている。いつ頃からだったか、楽人の笛がひとりでに落ちるようになった。今年は大丈夫かと眺めていたが、ある朝見ると、やっぱり落ちていた。たわいないことだが、そこに夫婦の年月が現われている。
 落ちた笛を雛の小さな手に持たせる。あと何年、わが家のこのささやかな行事が続けられるのだろう。「今年も」のさりげない一語に思いが宿っている。

流木に風の弔歌や月日貝 𠮷川 典子

 浜に打ち上げられた流木がある。波と砂に磨かれて白い膚を晒している。ひゅうひゅうと音を立てて風が吹き抜ける。その音がまるで流木を弔う歌のようだと言うのである。とりとめもなく広がった海辺の風景が目に浮かぶためか、取り合わせた月日貝の深い色が印象的だ。作者はこの流木に、おそらく自分自身を見ているのだろう。

半島の たんぽぽの絮吹けり  前原 正嗣

  は朝鮮民族の文化や思想の根幹をなす思考様式だと言われる。日本語の恨みと同義ではない。私には十分説明できるだけの知識がないが、隣国でありながらなかなかわかり合えない気がするのは、恨が背景にあるのだろう。作者も何かの折に恨の壁にぶつかったのだと思う。文化の違いだと片付けていてよいのか。途方に暮れた心でたんぽぽの絮を吹く。この句の半島は朝鮮半島のことだが、半島の風景をたんぽぽの絮が風に乗って飛んでいくイメージがそこに重なる。

列聖を拒みて鳥に花ミモザ 髙柳 克弘

 列聖とはカトリックの聖人に名を列ねることである。長い年月の厳しい審査を経て、教皇より列聖が宣言される。カトリックの最高の栄誉であるはずだが、聖人に祭り上げられては不自由だと拒み、鳥になってしまった聖者がいた。実際にそんな聖者の挿話があるのかどうか知らない。作者の憧れる生き方が、こんな夢になって降り立ったのかもしれない。

小町忌の月のかんばせ細りたる 西嶋 景子

 望月から日数を経て、月がすっかり細くなった。その頃の月の出は遅い。作者が月を仰いでいるのは、夜更けか、あるいは明け方のはずだ。小町忌で「月のかんばせ細りたる」とくれば、ふっくらした美貌の老いて痩せ衰えたことを連想せざるを得ない。「花の色移りにけりないたづらに」である。小町と容色を競う気などなくとも、女性にはいつかこんなふうに小町の老いに共感するときが来るのだろう。春の朧げな月であるのがかえって寂しい。

夏蝶の翅美しく肩で閉づ 林 達男

 翅をうつくしく閉じたというだけでは俳句にならない。この句の魅力は「肩で」の発見にある。大柄の揚羽蝶だろう。蝶の翅の付け根は、肩だと言われれば確かに肩の位置だ。かぼそい付け根から大きく広がった翅が、息を止めるようにひたと閉じる。肩と言ったことで、蝶の生身が感じられる不思議な魅力が生まれた。

はつなつや水平線は朝引かる 小島 月彦

 早朝の濁りのない大気の彼方に、水平線がくっきりと現われる。朝が来る度に造物主が引き直したような完璧な線だ。オリーブ畑から眺める地中海の夜明けを想像してみる。オリーブが白く細かい花をつける初夏である。

ふらここや漕げばわたしを遡る 杉村 有紀

 何十年ぶりだろう。気まぐれにぶらんこを漕いでみた。振り子のように体が揺られると、子供の頃の感覚が甦る。目をつぶればその頃のなつかしい風景が見えてくる。「わたしを遡る」の思い切った簡潔な表現がよい。