鷹の掲載句

主宰の今月の12句

どすんと

2024年12月号

パーマ屋も米屋もビルに西鶴忌

るも野の明るさや小鳥来る

水音は遠ざかる音鰯雲

牡鹿鳴く強弓引き絞るごとく

牝鹿らは団居を解かず牡鹿鳴く

秋冷の脚しらしらと座頭虫

打ち延べし海に朝日や稲架高し

傘さして宿の迎へや藤袴

川音のだらけなり崩れ簗

朝寒の白樺林牧に出づ

火口湖のどすんと青し鳥渡る

びきと引く缶のプルタブ冬近し

今月の鷹誌から

推薦30句

2024年12月号

山霧のあはひ太陽古鏡めく        

さやけしや釣針はづす魚の口       

新涼の私をさがす鏡かな         

黄金比白銀比水澄めるなり        

枕辺に初夜の虫籠あをくさき       

白玉や来し方語るをんなの手       

星座みな地球を向けり虫時雨       

胡桃落つ川音軋む夕まぐれ        

台風過空ふかぶかと息をせり       

白萩や武士の都の尼寺に         

炎天の坪百万の草地かな         

綺羅星の下の死火山秋の声        

蜩や小川に洗ふ鍬と足          

女郎蜘蛛月の蒼さの糸垂らす       

絵の中の笑わぬ少女終戦日        

奥坂 まや

大井 さち子

野本  京

大石 香代子

荻原 梗花

大根原 志津子

竹本 光雄

辻 和香子

瀬下 坐髙

齊藤 桂

甲斐 正大

日高 延代

荒木 山彦

草彅 玲

松下 順子

ズリ山に天心の月皓皓と         

積乱雲高し十年国債買ふ         

稜線は天地引き寄せお花畑        

名月や指輪一対筐の中          

ドライヤー要らぬ猫っ毛夕化粧      

掛け流す湯に流るるや火取虫       

ま行から始まる喃語赤のまま       

大釜の泡ふく薪や走り蕎麦        

またしても駆け込み乗車今朝の秋     

尼寺を竹の春風包みたる         

屈葬の骨からみあふ野分かな       

新涼や島かぞへ来て小豆島        

われ揮発して秋空に吸はるかな      

今日明日の一合炊くや今年米       

富士山頂肺の底まで星月夜        

堂下 加寿夫

新藤 千恵子

和泉 明来

橋爪 きひえ

山崎 南風

大野 晴真

齋藤 桃杏

中村 乞多

青田 文子

植野 路子

林山 任昂

辰巳 擁子

今井 俊彦

小林 庸助

中野 こと子

秀句の風景 小川軽舟

2024年12月号

星座みな地球を向けり虫時雨        竹本 光雄

 宇宙において地球など塵ほどの存在感もない。宇宙の星々にとっては地球など無きに等しいのだ。その宇宙に向き合い、人は星空に星座を見出した。地球から見て考えたものだから星座が地球を向いているのは当然なのだが、この句は宇宙自体が地球を向いているかのような懐かしさを感じさせる。
 星座は古代バビロニアからギリシャに伝わって発展、二世紀の天文学者プトレマイオスが四十八星座に整理し、これが後にカトリックの教義により正統化された。大航海時代に入ると南半球の星座が加わり、現在は国際天文学連合の決定した八十八星座が公式に認められている。
 プトレマイオスはコペルニクスの地動説が認められるまで世界を支配した天動説の大成者である。「星座みな地球を向けり」の懐かしさは、天動説の懐かしさでもあるだろう。虫時雨を聴きながら星空を見上げれば、今夜も星々は地球の私たちを向いて親しげにきらめいている。

ズリ山に天心の月皓皓と          堂下 加寿夫

 北海道の大半は近代以降の入植者により開拓された土地だから、方言が少ない印象がある。それでも独特の言い方というものは少なからずある。北海道出身の同僚が「うちのぼんずが……」とよく息子の話をしていた。この「ぼんず」も北海道特有の言い方、いわば方言らしい。
 掲句の「ズリ山」とは、炭鉱から出る岩石や粗悪な石炭が捨てられてできた円錐状の山のこと。「ボタ山」ならば五木寛之の『青春の門』などでお馴染みだが、ズリ山は寡聞にして覚えがない。日本の近代化を支えた炭鉱は北海道と九州に集中した。九州ではボタと呼ぶものを、北海道ではズリと呼んだのだ。そういうわけで、この句は北海道の旧炭鉱町の情景として読む必要がある。すると、月光がより冴え冴えと感じられて、悲傷の気分が濃くなる。

枕辺に初夜の虫籠あをくさき        荻原 梗花

 初夜とは仏事のために昼夜を六分した六時(晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)の一つ。正岡子規は奈良を旅した折の随筆「くだもの」に、宿の仲居に柿をたくさん剝いてもらって食べた場面で、「あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ」と記している。おおよそ日没から夜の更ける頃まで。飯田蛇笏の句に「雲漢の初夜すぎにけりいしかはら」がある。
 掲句の初夜もそういう意味だと私は解する。夜も更けぬうちから床が伸べてあり、枕元で虫籠の虫が鳴いている。「あをくさき」は実際の匂いであるのみならず、この情景に置かれた作者の感情が嗅ぎとったもののようでもあってなまなましい。初夜がもっぱら新婚初夜を指すようになったのはいつ頃からなのか。この句も十中八九そう読まれることだろう。本来の初夜がよい言葉だけに残念に思う。

さやけしや釣針はづす魚の口        大井 さち子

 「さやけし」あるいは「さやか」は、「爽やか」の傍題として秋の季語になっている。秋の気候の心地よさを表すものだが、「爽やか」とはニュアンスの違いもある。「さやけし」を用いて有名な句といえば、西垣脩の「さやけくて妻とも知らずすれちがふ」。この上五が「爽やかに」では受ける印象が違ってくる。どちらも古くからある言葉だから多くの用例に触れて言葉に対する感度を高めるのがよい。
 掲句は「さやけしや」がよく働いていると感じた。釣針より口が小さいほどの淡水魚を想像する。

新涼の私をさがす鏡かな          野本 京

 鏡は俳句でさまざまに詠まれているが、鏡が私をさがすという着想は目新しい。一句目に「秋風や癌病棟へ旅鞄」と詠まれた事情が背景にあるのだろう。いつまで待っても映りに来ないので、鏡の方が心配になってさがすのだ。毎日鏡を使う人と鏡の関係、特に女性と鏡の関係を通して、家を不在にすることのさびしさを描きとった。

屈葬の骨からみあふ野分かな        林山 任昂

 三十年ほど前、私が福岡に住んでいた頃のことだが、弥生時代の吉野ヶ里遺跡に行くと、屈葬された甕棺の発掘中で、人骨が露わに晒されていた。この句から久しぶりにその情景を思い出したのである。遺体を横たえる伸葬と違って、屈葬の骨はやがて崩れてぐしゃっと一塊になる。それを「からみあふ」と見た表現に死者の執念のようなものを感じる。この句も発掘現場なのだろう。むき出しになった墓場に野分の風雨が容赦なく打ちつける。

尼寺を竹の春風包みたる          植野 路子

 竹の春、竹の秋は江戸時代から用いられているが、いかにも俳諧らしいひねりのある言葉だ。竹の春に吹く風は竹の春風、と作者はさらに洒落てみた。尼寺という設定、「包みたる」という措辞と相俟って、その機知が嫌味なく味わいになっている。