鷹の掲載句

主宰の今月の12句

開け閉て

2025年6月号

石蓴寄すあさき汀にうすき波

春雨や布団括れば粗大ごみ

卒業すドラムがたぴし打ちたたき

開け閉てに響く木の家沈丁花

春の月隣に醤油借りにけり

弁当に瓢亭玉子緑摘む

春灯や畳の縁に壁の砂

髪結はく後ろ手高し花きぶし

真夜叫ぶロードカッター花疲

分度器は百八十度燕来る

熱国の花こそかをれ甘茶仏

甘茶灌ぐ稚児の肘にもゑくぼかな

今月の鷹誌から

推薦30句

2025年6月号

生きて着る服の数ほど蝶生る       

石鹸玉つぎつぎ消ゆる怖さかな      

の富士の朝日や結氷湖         

透けてゆく会議の席の新社員       

鍋捨てに出てぶらんこに日暮まで     

先に先に行きたがる犬蜃気楼       

早蕨や窓開け入るる川の音        

渡さるる風船を咄嗟に拒む        

涅槃絵の前の一畳混み合えり       

尼寺のすべて小振りや蝶までも      

読みさしの本を柩に春の雨        

春耕や畑の隅に椅子と本         

つばくらや遠山淡き城下町        

魚島や国のはじめの淡路島        

一喝の如き墨痕臥竜梅          

布施 伊夜子

折勝 家鴨

甲斐 正大

宮本 素子

辻内 京子

三橋 三枝

伊澤 麻利子

作田 きみどり

古賀 未樹

飯田 やよ重

斉藤 扶実

井田 誠治

横田 さち

山内 基成

砂金 祐年

壺の碑亀も田螺も鳴きにけり       

九相図の髪ゆたかなり鳥の恋       

春遅々と雲の渚に星ふたつ        

明日のパン買ひにそこまで春北斗     

春雨や更地に残る巨木の根        

カーテンを吊る前の部屋山笑ふ      

翼下には氷海光る夜明けかな       

口答へ覚えし夫と菊根分         

旧道に曲がる楽しみ白木蓮        

粘土取る崖の細道きぶし咲く       

開くるたび悲鳴上ぐる戸雪女       

名山は遅れて暮れぬ春田打        

旧正や真赤なに水餃子         

春昼や汀へ烏はづみ寄り         

目刺焼く何とかなると言つてみる     

伏見 ひろし

安齋 文則

加藤 征子

市東 晶

井上 陽子

八田 直美

小林 紀彦

清水 風子 

吉成 イク

竹前 光男

柳沢 美恵子

本多 伸也

宮本 ヒロ子

大谷 千晶

宮﨑 智厳

秀句の風景 小川軽舟

2025年6月号

渡さるる風船を咄嗟に拒む        作田 きみどり

 今の日本に生きる者に広く浸透しつつある心理を捉えた句だ。この社会のどこに悪意が口を開けているかわからない。人の好意を無心に受け取ることができなくなった。それどころか知らない人から声をかけられることにも警戒心を抱く。携帯電話に知らない電話番号の着信があっても、出てよいものか躊躇してしまう。そのためこちらからも電話は避けがちになり、メールやSNSを多用する。日本の社会から大らかな人懐こさが失われたと誰しも感じるところがあるだろう。
街を歩いていてふいに風船を差し出される。作者は幼子を連れていたのかもしれない。その風船を反射的に拒んだ。通り過ぎて振り返ると、開店した店が宣伝に配っているもののようだ。うれしそうに手にする余所の子を見て、わが子はうらやましそうにしている。もらっておいてもよかったなと思うが、「咄嗟に拒む」が身についてしまっている。風船という季語がこのような切口で生かされたことが驚きである。

の富士の朝日や結氷湖 甲斐 正大

 遖という言葉に富士山ほど似合うものはない。だから、それをわざわざ言えば陳腐になる。それでも文句を言わせず押し切る力が、この句の下五の結氷湖にはある。富士五湖の河口湖あたりか。真っ白に凍りついた湖面の向こうで朝日に輝く富士山。その神々しい風景を目の当たりにした作者の感動の大きさが、読者に有無を言わせないのだ。

口答へ覚えし夫と菊根分          清水 風子

 夫唱婦随という言葉がある。この夫婦はその逆で、 天下だったのだろうか。私は少し違う読み方をした。これまでの夫は会社人間で、家では妻が何を言っても生返事ばかりだった。それが会社を定年退職して妻とまともに向き合うようになったのだ。一緒に庭仕事をするのだから仲が悪いわけではない。妻に言われるままに手を動かしていた夫が、近頃は「そうじゃない」とやり方に意見を言うようになった。それは妻にとっては、実はうれしい口答えなのだ。

読みさしの本を柩に春の雨         斉藤 扶実

 類句が多くて今さら詠んでも仕方ない材料がある。柩に故人ゆかりのものを入れるというのもその一つ。誰もがすることだからよほど切口を工夫しないと常識的になる。故人の愛読書を入れるなどその最たるものだが、掲句は「読みさしの」の一言で一句に情が通った。故人がほんの少し前まで生きていたことが感じられ、季語も相俟って葬儀の空気をしっとりしたものにしている。

壺の碑亀も田螺も鳴きにけり        伏見 ひろし

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、古来和歌に詠まれてきた歌枕を訪ねる旅でもあった。「壺の 」もその一つ。尋ね当てた芭蕉は涙がこぼれるほど感激した。芭蕉がまみえたのは江戸時代に多賀城で発見された石碑。これが壺の碑だと喧伝された。坂上田村麻呂が 蝦夷征伐の際に建てたという壺の碑そのものかどうかは疑わしいのだが、重要なのは事実がどうかより、壺の碑が遥かなるみちのくのシンボルとして古典の世界に伝えられてきたということだ。
 この句は多賀城に住む作者のみちのく讃歌なのだ。はるばるみちのくまでやって来ると亀も田螺も鳴く。そんな楽土こそ都びとのあこがれたみちのくにふさわしい。

旧道に曲がる楽しみ白木蓮         吉成 イク

 新しく通じたバイパスが真っ直ぐな道路なのに対し、昔からの旧道は町並みを縫うように曲がりくねっている。彼方まで見通せる新道を飛ばすのは気分がよいかもしれないが、作者は曲がるたびに新しい景色に出会える旧道を愛するのだ。今しも角を曲がったとたんに旧家の見事な白木蓮が視界に飛び込んできた。

カーテンを吊る前の部屋山笑ふ       八田 直美

 「カーテンを吊る前の部屋」とは、引越して来た部屋ということだろう。賃貸でもカーテンは借主負担が一般的で、最初から備わってはいない。カーテンのない窓の向こうに春めいた山があるのは、郊外だからか、地方都市だからか。カーテンのない部屋は、まだ生活感に乏しい。それだけにここから新しい生活が始まるのだという気持が湧く。