今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  送火や三泊四日妻帰る          野尻 寿康

 妻に先立たれた男の胸の内である。野尻さんは、たぶん私の次の句を意識していたのだろう。
  妻来たる一泊二日石蕗の花           軽舟
 私のこの句は単身赴任の男のつぶやき。単身赴任先の様子を見にやって来た妻は、子供の世話があるから週末だけで帰ってしまう。つまり一泊二日なのだ。野尻さんの妻の場合は盂蘭盆会の間、八月十三日に迎え、十六日にかの世に帰す。送火を焚きながら、三泊四日の妻の滞在を思う。それは野尻さんにとってどんな時間だったのだろう。
 私の句を真似たなどと言ってはいけない。これは私の句への挨拶でもあるのだ。単身赴任は寂しかろうが、一泊二日だって生身で来るじゃないか。私の句の「妻来たる」に対して、野尻さんが「妻帰る」と詠んでいることも胸を打つ。

  ミサイルの光と知らず草ひばり      竹岡 一郎

 原爆の閃光ときのこ雲、摩天楼に突っ込む飛行機、沖から海岸へ横一線に進む津波、建屋を吹き飛ばす原子力発電所。どれも映像で見たが、その眺めが現場にどんな惨禍をもたらすのか、危機が未曽有のものであれば尚更、私たちの想像力は停止してしまう。
 草ひばりが心地よい声を聞かせる薄暮、紺青の空をこちらへ向かって飛んでくるミサイルはどんなふうに見えるのだろう。アニメ映画「君の名は。」で平和な村を滅ぼした彗星のように光の尾を引くのだろうか。「ああ、美しい」と仰ぐ私たちの顔もまた、無垢で美しいことだろう。

  ちちろ鳴き何故か笑へぬサザエさん    山本 邦子

 長谷川町子の書いた四コマ漫画の「サザエさん」。サザエさんのもたらす笑いは、あの時代の庶民感情に深く根差している。だからこそ「何故か笑へぬ」という気持ちがよくわかる気がした。世相も変わってすっかり忘れていたあの時代の健気な自分たちの姿が思い出されて、笑うべきところでなぜか涙が出てしまうのだ。

  ゆくゆくは霧の古木に眠りたし      清水 正浩

 お盆に私の母の墓参りに行ったら、寺の駐車場の一隅で樹木葬の案内をしていた。この句、ひと昔前だったら違う読み方になったと思うが、今なら樹木葬を念頭に置いたものだと読んでみてもおもしろいだろう。木漏れ日の明るい木立の中より、霧に巻かれた古木の下に眠りたい、そう作者は思う。何かと不自由な世の中に生きているから、最後に眠る場所くらい誰も自由に想像してよい。

  秋晴や幼ふえたる七回忌         内田 木良

 葬式、三回忌、そして七回忌。故人の親族が法事に集まるたびに幼子が増えてゆく。故人を知らない幼子どうしで遊びまわっているのだろう。七回忌はちょうど「幼ふえたる」の頃合である。秋晴の季語が故人の知らない日々を明るく祝福している。人は死んで終わりではないのだ。

  ヘルメット脱ぎたる峠星月夜       古田いづみ

 バイクのヘッドライトの光だけを頼りに林道を駆け上る。峠に着いてバイクを停めると静寂が一気に押し寄せた。ヘルメットを脱いで空を仰ぐ。こんな星空を見るのはいつ以来だろう。熱った髪を山気が冷やす。都会暮らしでいつの間にか背負い込んだ肩の荷がたちまちほどけてゆく。

秋晴にうれしく動く手足かな       中川 桂子

 今年の十月は雨が多かった。毎年当たり前のように仰いでいた秋晴の空が、今年はとても尊く見えた。この句も久しぶりの秋晴なのだろう。この天気を逃すまいと洗濯を皮切りに家事に励む。うれしさから手足がひとりでに動く。そう思えるほど気分は軽やかだ。

どちらかが寂しき恋や流れ星       水元 遥香

 恋をこういうものだと思う若い女性の心に興味を引かれる句である。相手は幸せそうな顔をしているのになぜ私は寂しいのか。逆に自分が満ち足りたとき、もしかすると相手は寂しいのではないかと思いやる。恋はそんなシーソー遊びを繰り返しながら深まっていくものなのかもしれない。寂しさを知らない恋人はただ鈍感なだけなのではないか。

桜葉の早や黄ばみけり秋湿        廣瀬 嘉夫

 九月十六日の鷹中央例会で奨励賞に推した句である。地味な印象ながら秋湿という季語に託された季節感がよく捉えられていると感心したのだ。紅葉というには早いが、雨に打たれた桜の樹に黄ばんだ葉が増えた。そのいくつかは公園の砂地に散り敷いている。そぞろに寒さを覚える頃である。
 廣瀬さんは当日欠席だったが、九月二十六日の消印で届いた投句葉書はいつも見慣れた廣瀬さんの字だった。十月十一日逝去、享年八十八。この句を褒めてあげられたことで少しだけ気が休まる。

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