今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  まだ働くつもりの靴やクロッカス     帆刈 夕木

 どんな職場かにもよるが、男女を問わず勤めている間とリタイアした後とで大きく変わるのは靴の選び方だろう、とサラリーマンの私にも想像がつく。作者はまだまだ働ける年齢だが、これからの人生のプランを考える時期に差し掛かっているらしい。働かずに家にいればストレスも減るし時間に余裕ができる。しかし、社会の現役でなくなってしまう気がする。決めきれないうちにまた春がやってきたのだ。
 足下に目を向けさせるクロッカスの配合がよい。まだ働くつもりで選んだ靴。それは、まだ社会と向き合っていたい作者の意志でもある。「抽出の奥の名刺や鳥雲に」「裁判所前のバス停桜の実」「一斉に黒靴歩き出す夏へ」、これらの句にも、社会の中の自分の位置を見出そうとめぐらす作者の静かな視線がある。

  朧夜や武者行列の武具の音        岸上 福市

 城下町の祭に武者行列は付きものである。重そうな鎧や具足をがちゃがちゃ言わせて町を練り歩く。物珍しさに浮かれてきょろきょろせず、「武者行列の武具の音」と音に絞り込んだ表現がよい。だが、夜中に武者行列などするだろうか。そういぶかしんで、むしろ作者の狙いはそこにあるのだと考え直した。これは昼間見た武者行列の残像なのだ。それが迫力を持って読者に伝わるのは、昼間写生した「武者行列の武具の音」の手柄。幻想を詠むにも写生は大切なのである。

  髪束ね湯に入る姉妹春深し        宇佐美尚子

 それぞれに黒髪を束ねてともに湯浴みする姉妹である。子どもならわざわざ髪を束ねなどしない。これは大人の姉妹である。連れだって湯に入るのはここが温泉場だからか。湯船から立ち上る湯気と控えめに湯を使う音。髪を描いたことで白い裸身がおのずと浮かび上がる。小林古径に「出湯」という名画がある。この句は文字で書かれた一幅の絵である。

  焼香のやうに蒔きけり花の種       亀田 蒼石

 上品な比喩とは言えない。あまりにあけすけで詩情に乏しい。けれどやっぱりおかしい。芥子粒のように小さな種なのだ。指の腹を擦り合わせる感触が、焼香を思い出させたか。葬式の焼香と花の種を蒔くこととの落差がこの句のいのちである。

  蝌蚪の水山のみどりを跳ね返す      田中 和子

 おたまじゃくしのいる水に山のみどりが映っている。ありふれた情景を生動させたのが「跳ね返す」の表現である。張りつめるように水が満ちていること、山のみどりのあざやかなことが一読して伝わってくる。こういう言葉を見出すことが写生なのだと言ってもよい。

  葉桜や都民となりしワンルーム      山口美惠子

 夫の単身赴任、あるいは子や孫の就職や進学。人生のさまざまな出来事が身内を東京に送り出す場面をもたらす。桜の咲く頃に引っ越し、葉桜の季節になって生活も少しは落ち着いた。そんな時期に訪ねてみたものか。それにしても都民とはなんと狭苦しく暮らすことよ。「都民となりしワンルーム」には皮肉が込められているが、それでもなお、東京で暮らせることへの羨望もあるのだと感じる。

  繋がれて老犬チビの日永かな       植苗 子葉

 先月号で人間の一年は犬の七年に相当するといういわゆるドッグイヤーのことを書いたが、この句にもドッグイヤーの切なさが描かれている。子犬の頃につけたチビの名のまま、人間の家族に先駆けて老犬になった。老いても飼い主に見せる素直さは幼い頃と変わらない。家族と犬に残された日々の長かれと思う気持ちが日永に表れている。

  夏近しシャワーの音の飛び散りぬ     竹岡佐緒理

 若々しさが快い句だ。シャワーは飛び散って当たり前のものだが、その音もまた飛び散るのである。シャワーの感触も飛び散る音も、裸の体がよろこんで迎え入れている。いちいち風呂を沸かさなくてもシャワーで済む季節になったのだ。それを実感させる「夏近し」である。

  アネモネや異教徒の棲む壁の町      三和 邦彦

 海外詠だろうか。石畳と石の壁が続く町並み。「壁の町」はその素直な写生なのだが、周囲に対して警戒心を解くことのできなかった歴史をも連想させる「壁の町」である。モノトーンの町にアネモネのエキゾチックない色彩が際立つ。

  目刺焼きもやし炒めて庶民たり      井原 悟美

  健気な庶民の暮らしを応援したくなる。目刺ももやしも庶民の味方の値段でスーパーに並んでいる。しかし、この句は貧乏くさくない。今なら外食やコンビニでも安上がりに済ますことができるが、あくまで家で飯を炊く。「庶民たり」の庶民は、作者にとってあるべき正しい庶民なのだ。

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