今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  下足札への六亀の鳴きにけり       志賀佳世子

 いろは文字と漢数字の組み合わせが、いかにも古風な下足札を想像させる。料理屋でも銭湯でもよい。手になじむ木の札に墨で「への六」と記してあるのだ。この「への六」が絶妙で、他のどんな符号でも勝負にはなるまい。
 「へ」は「屁」に通じ、「屁の河童」や「へのへのもへじ」を連想させる。「六」も「甚六」「才六」「宿六」などなぜかあまりぱっとしない男ばかりが思い浮かぶ。
 上品な佳世子さんが、よくぞ「への六」の妙味に気づいたものだ。実際に「への六」の下足札を手にしたのだろうか。そうだとしたらなんという幸運、手にせずこの句ができたのならなんという巧さ。「亀鳴く」の季語の取り合わせも巧いが、これはもうゴールの後に軽く流したというくらいのものだ。ともかく「への六」、意味のない俳句は強い。

  ロードムービー石鹸玉弾けず空へ     飯島 白雪

 ロードムービーは旅先の移動の過程を舞台にした映画である。わざわざそう呼ばれるほど一つのジャンルをなし、名作も多い。日本映画なら山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」が代表的なロードムービーだ。安定した日常をなつかしく思いながら、何らかの事情で日常から遊離してさすらっている。そんな主人公とともに見る風景は、なんでもないものにも詩情が宿る。ロードムービーのカメラはそうした風景を綴りながら走り続ける。
 この句の「石鹸玉弾けず空へ」が、いかにもロードムービーの一場面らしいと思った。石鹸玉は弾けたら当たり前。予想を裏切って空高く昇った石鹸玉を見上げる主人公の心に、いま何かが芽生えたことを感じさせる。
 映画館でこんな映像に出会ったということでもよいのだけれど、できれば作者自身が石鹸玉を見上げて、ふと自分がロードムービーの一場面にいるように感じた、そういう句だと読んでみたい。作者はその瞬間、日常にありながら日常から爪先一つ分だけ遊離したのである。

  蒼白くまた仄紅く春きざす        東 砂都市

 何が蒼白く、何がほの紅いのか、読者に対して無責任に投げ出したような句だが、なぜか見捨てがたい。まだ肌寒い空気の中で見出すさまざまな色に、私たちは春の兆しを感じている。そのことに気づかせてくれる句なのだ。喩えて言えば具体的な形象のない抽象画のような句。その色彩の交響に、春は確かに兆してくるのである。

  敷藁を割りてものの芽翡翠色       吉田美沙子

 園芸用の草花でも野菜でもどちらでもよい。冬の防寒のために敷かれた藁を貫いてすっくと芽を出したのである。何の芽とも言わずにものの芽という。その季語の味をうまく生かして、春そのものがそこにぬっと現れたような印象を残す。枯色の敷藁から突き出た翡翠色の芽の鮮やかさを、「割りて」の措辞が際立たせている。

  金要らぬ原発要らぬ鹿尾菜干す      清田  檀

 「原発要らぬ」はデモ行進のスローガンのようで常識的だが、「金要らぬ」と畳みかけて社会に鋭く切り込んだ。原子力発電所の立地する自治体にはさまざまな名目で金が落ちる。市町村合併の進んだ昨今、原発周辺だけ小さな町や村が残っているのはそのためだ。「金要らぬ」と言ったことで「原発要らぬ」がスローガンではない現実になる。守りたいのは当たり前に鹿尾菜を干す昔ながらの生活なのである。

  妻遅し鴬餅を買ひに出て         神成 石男

 買い物に行った妻がなかなか帰って来ない。鴬餅も買ってくるわねと言って妻は出かけたのだ。鴬餅の待ち遠しさから始まって、今は帰って来ない妻が心配になり始めている。
 春の季語になっている和菓子はいくつかあるが、この句はやはり鴬餅でよい。「街の雨鴬餅がもう出たか」という富安風生の著名な句があるが、季節の先駆けだからこそ、神成さんのこの句の気分を生かしてくれるのである。

  打ち上ぐるもの何も無し冬の浪      井上 京美

 きっぱりした否定形は俳句に似合う。言い切った後の余韻が豊かなのだ。掲句の否定形がまさにそれだと思った。流木が打ち上げられたり、外国の漂着物が打ち上げられたりといった句はたくさん詠まれている。だからこそ、「何も無し」の否定がかえって新鮮なのだ。何もないまっさらな汀が続いている。その凛々しさは精神の緊張そのもののようだ。

  恋は浅瀬愛は大河へ春の川       髙安美三子

 これが美三子さんの句かと目を瞠った。寓意的な春の川である。恋のうちはまださらさらゆく浅瀬。やがて愛の大河となって深く海に注ぐのだ。祇園という因習の強い社会で酸いも甘いも噛み分けたであろう美三子さんが若い芸妓や舞妓に教え諭すような句。と同時に、作者自身も愛の大河を夢見ているようでもある。そこがよいのだ。

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