今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  夏ふとんしつかり摑み夫の夢       古川 英子

 短夜の夢に夫が現れた。ずいぶん久しぶりだ。ちゃんと顔を見たい。声を聞きたい。簡単に帰したくない。できることなら今すぐついて行きたい。
 夢の中身は何も書かれていない。ただ、夏蒲団をしっかり?む作者の手だけが示されている。「しつかり」に夫を離すまいとする意志が露わだ。夢の中身を語り出したら嘘くさくなる。けれど、この手には嘘がない。いくら?んでもふんわりと軽い夏掛けの蒲団であることが心細い。
 この句、淋しいことは淋しいのだけれど、なんだかおかしいのである。夫を思って夏蒲団の端をぎゅっと握っている。その姿が愛らしい。失礼を省みずエロチックと言ってもみたくなる。死んでからも妻からこんなふうに夢見られる夫は幸せだと思う。

  母の日の母にゆつくりわが名湧く     栗原 修二

 認知症になった身内を詠んだ俳句が増えている。見たくないと目をつぶるのではなく、現実として大切に受け止めようとする作者が増えたのだ。
 母の日のプレゼントを携えて母を訪ねた。近頃いつもそうであるように、母は作者がどこの誰だかわからない。しかし、しばらく傍にいるうちに、「おや、修二かい」と母の声がする。そこに到るまでのもどかしい時間の経過。それは母の頭にわが名が湧き出すまでの時間だったのだ。思い出された名前が泉のようにきらめいて見える。

  泳ぎ着く岩肌父の背の匂ひ        岡本 雅洸

 このようにして作者の前に立ち現れた父のイメージが私には新鮮だった。海でも川でもよい。冷えた体で取りついた岩はじりじりと日に灼けて熱い。それが父の匂いだという作者の確信から浮かび上がる父親像は土俗的で逞しい。
  父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し        寺山 修司
 という早熟な文学青年の父とは百八十度違う。けれども、子にとって無言で聳え立つ存在であった父の普遍性は、どちらの句においても変わることはない。

  父の寡黙母の沈黙軒風鈴         尾形  忍

 父はもともと寡黙な人間なのだ。自分の思いを伝えることに不器用で、窮するとますます黙り込む。母はそうではない。いつも朗らかに家族の面倒をみる母が、今は黙り込んでいる。もう父に言いたいことは言ったのだ。そして父の言葉をじっと待っているのである。
 「寡黙」と「沈黙」を並列することによって父と母の違いを描き分けている。昔見た両親のある一場面なのだろう。黙り込む二人に軒の風鈴が響いていた。今も風鈴の季節になると、あの場面がふと頭に甦るのである。

  百合生けて夜の重心ぐらぐらす      畠  梅乃

 山百合かカサブランカか、いずれにしても花のとびきり大きな百合だろう。花瓶に生けたとたんに部屋中が香りで満たされる。夜になって誰かを迎え入れるのだろうか。百合が香ったその瞬間、作者は日常が揺らぐ心地を覚えたのだ。「夜の重心ぐらぐらす」は、その心地を作者の感じたままに言葉にしたもの。自分が危うさの縁に立っていることを感じながら、その危うさに惹かれてもいる。大きな百合はそれだけ花瓶に挿しても不安定である。バランスが崩れてすぐにがっくり傾いてしまう。その感覚が「夜の重心ぐらぐらす」の心理描写に投影する。思い切った表現ながら巧まぬ計算がある。

  どの主婦もバナナを買へり特売日     新宮 里栲

 いつのまにか主婦という存在の居心地が悪い世の中になってきたようだ。人口減少でいずれ労働力が不足するから女性も社会で活躍して(つまり働いて)もらわなければならない。女性活躍推進法などという法律もできた。掲句はそんな時代の空気を敏感に嗅ぎ取ってのものと思われる。
  秋風やかかと大きく戦後の主婦      赤城さかえ
  主婦の夏指が氷にくっついて       池田 澄子
 さかえの句は、戦後の食糧難の時代に家族のために奔走した主婦の姿を男の立場から描いた。澄子の句は高度成長期に入って電気冷蔵庫がわが家にやってきた頃の主婦の実感だろう。それぞれ主婦が主婦らしくあった時代である。
 特売日にバナナを買う。これこそ主婦の活躍である。あえて時代錯誤的に主婦を描いて、主婦という言葉、主婦という存在への愛惜の思いを表した一句。


  またひとり向かうへゆきぬ日向水     有澤 榠樝
  逝くときは歩いていかうほととぎす    加藤 静夫

 自分にとって死とは何か。死体という惨たらしいものを残して無になるというだけであってはやりきれない。
 日向水の照り返しのまぶしさに目を細めながらいつか行く向う側。どうせならホトトギスの声に励まされながら腕を振って歩いて行くか。実際に死ぬまで死は未知であり続ける。比喩は死を想像するための親しい道具である。

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