今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  戦前の遺書晩春の抽斗に         竹岡 一郎

 抽斗に遺書がある。一句の組み立てはシンプルだ。この句の眼目は、そのシンプルな組み立てにおいて、戦前と晩春という二つの時間が出会っている点にある。
 晩春とは桜が散ってから立夏を迎えるまでというのが凡その理解だろう。その間も季節はどんどん進むのだが、桜で春の興趣を満喫したのち、しばしの停滞感、空白感がたゆたう時分だと思う。今月号には次の句がある。

  晩春や曇硝子にセロテープ        桐山 太志

 桐山君が古い材料をよろこぶ性向を歓迎はしないけれど、この句、晩春の気分はよく捉えている。今ではアルミサッシが当たり前になっているが、私が子どもの頃にはこの句のような曇り硝子、つまり磨りガラスの窓をよく見かけた。灯が点ると、罅を止めたセロテープが明るく照り映える。この句の晩春は、昭和のどこかで止まったままだ。
 竹岡君の句に戻ると、この句の晩春も、やはり昭和のどこかで止まったままなのだ。戦前の遺書、それは戦地で死ぬと覚悟して家族に遺されたものだろう。受け取った両親は死に、若妻は老いた。それでも遺書の収まった抽斗は永遠の晩春にある。小津安二郎に『晩春』という映画がある。今になって見れば、あの頃の小津映画は、やがて失われる昭和のために予め用意されたオマージュだったのだろう。

  湯上りの母の爪切る日永かな       加納 泰子

 湯上りの母の手足の爪を、やわらかなうちに切ってやる。母は頬を火照らせたままされるにまかせている。毎夕同じ時刻に繰り返される介護の場面なのだろう。だからこそ日が永くなったことを実感したのだ。この日永の時間がずっと続きそうな、そんな母と子の場面である。竹岡君の句の遺書に泣いた若妻も、ちょうど今、こんな年齢に差し掛かっているのではないかと思った。

  海域を越え来し芥蜃気楼         志田 千惠

 海域という言葉は俳句ではほとんど使われていないことだろう。私たちは、陸地の国境は意識しやすいが、海にさまざまな境界が設けられていることは、領海やら接続水域やら排他的経済水域やらとニュースで聞いてはいても海に壁があるわけでもないから実感しにくい。そんな海域を越えて漂着物が届いた。外国からの漂着物を詠んだ句はよく見るようになったが、この句は海域という言葉によって日本と近隣諸国の間の不穏な空気を伝える。蜃気楼の取り合わせは駄目を押すようなものだが、このような句はぐいぐい押すしか仕方あるまい。それが何より志田さんらしい。

  春暁や大地に舫ふ熱気球         西嶋 景子

  熱気球の競技大会の準備が早暁から始まったのか。バーナーの火が勢いよく空気を熱すると、カラフルな気球が大きく膨らんで地上に繋いだ綱を引っ張り、重力のくびきから逃れたがる。「大地に舫ふ」という表現が大らかでよい。今しも解き放たれようとする大空が、まるで大海のように熱気球を迎えるのだ。

  夕東風や舫ひしままの水漬舟       若田 治良

 同じ舫うでも、こちらは小舟、岸辺で半ば沈んだまま朽ちかけている。「舫ひしままの」というところに哀れがある。持ち主が最後に舫ったとき、まさかそれが最後になるとは思っていなかったのではないか。持ち主に何かの事情が生じ、舫われたまま過ぎていく舟の時間が始まった。かつて持ち主に漕がれて水面を滑った頃のように心地よい夕東風を吹かせてやった作者のやさしさが救いである。

  牛頭(ごづ)馬頭(めづ)の娑婆に蠢く朧かな       砂金 祐年

 牛頭は人間の体に牛の頭、馬頭は人間の体に馬の頭を持つ地獄の獄卒で、亡者を責め苛むのが役目だ。そいつらが地獄のみならず、娑婆、すなわちこの世にもうようよしているとこの句は言う。弱者を虐げて金を巻き上げる悪事は引きも切らずニュースになる。牛頭馬頭、娑婆と仏教用語を畳みかけて、さながらこの世の地獄絵のようだが、どこか大げさで風刺画めいたおかしみもある。

  早蕨や養鱒に引く山の水         宮田 淑尚

 きれいな水だけが取り柄の片田舎の山里。渓流の水を引いた池で鱒を養殖している。傍らには釣堀もあって、その場で鱒の料理も食わせるのだ。早蕨の季語が風景をいきいきさせる。雪解水が豊かに鳴り響く頃である。

  片栗咲く男二人の観光課         宮本 準子

 これも似たような山里か。役場に観光課はあるものの定年間近の課長の下に若い係員が一人いるだけ。男二人でどうやって観光振興を図るのか。村はずれの森の斜面は春になると一面に片栗が花を咲かせる。あれを売り出そう、ということでテレビドラマのような涙ぐましい奮闘が始まるらしい。

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