今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  朧夜や妻の出かける悋気講        瀬下 坐髙

 江戸時代に女たちが集まって開いた無尽講を悋気講と呼んだ。悋気とは嫉妬のこと。女同士が集まれば、自ずと夫の浮気を恨む話になる。封建制の時代の女たちは、そうやって憂さを晴らすしかなかったのだ。
 「女子会よ」などと称して妻は出かけてしまった。どうせ俺の悪口でも言っているに違いない。妻の作り置いた夕食に箸をつけながらふてくされているのだ。わざわざ俳句にするような題材でもないのに、悋気講の言葉一つで現代に浮世草子の世界をぐっと引き寄せ、俄然おもしろくなった。

  初花や象の時間を象老ゆる        上田 鷲也

 中公新書のロングセラーに本川達雄の『ゾウの時間ネズミの時間』がある。動物には種ごとの時間があり、寿命がある。ハツカネズミは二、三年、インドゾウは七十年。ところが、ゾウもネズミも、心臓はおよそ十五億回打って止まるのだそうだ。象は三秒に一度の心拍で、動物園での見た目どおりゆったりした時間を生きている。
 掲句の「象の時間」は、そうした生物学的な意味合いも含んでいると思うが、それ以上に、象の一生が日本の戦後という時間の長さにほぼ等しいことから呼び起こされる連想に狙いを定めてのものではないか。象のはな子が死んだのが二年前。はな子は太平洋戦争が終わった日本にタイから連れてこられ、六十九年の天寿を全うした。その間、動物園を訪れたどれほどの数の親子を喜ばせたことだろう。今年も桜の季節が巡って来た。作者の脳裏にも親に手を引かれて桜の咲く動物園を訪ねた記憶がよぎったに違いない。

  もう一度犬飼ふ二人蕗の薹        坂尾 径生

 こちらは犬の時間。技術革新の速さの喩えにも使われるドッグイヤーという言葉は、犬の飼い主にとっては切ない現実を示すものだろう。人間の一年は犬の七年に相当する。小さな子犬は、たちまち成犬になり、やがて老いる。家族の一員のように思って暮らしていても、家族の時間とは別の時間を犬は生き急ぐ。
 作者は可愛がっていた犬に死なれたのだろう。同じ悲しみはもう味わいたくない。そう思っていた夫婦が、また犬を飼うことにした。前の犬は子どもにせがまれて飼った。子どもの巣立った今、今度は夫婦だけの暮らしのために犬を飼う。人と犬の新しい時間が始まるのだ。季語にその時間への期待がこめられている。

  手柄顔なし啓蟄の同期会         野村 信幸

 同期会に集まった面々。羽振りのよい奴が一人や二人いてもよさそうなものだが、どうやら皆そろって平凡な人生を送ってきたらしい。「手柄顔なし」の顔ぶれの中に作者の顔もある。啓蟄の季語に味がある。春になって地中の虫が外に出る。そのように世に出て幾星霜を経た同期生なのだ。代わり映えしないな、とその顔を見回して気持が妙に楽になる。

  春の雪出世頭の逝きにけり        香取 一郎

 これも前の句と同様のシチュエーションと想像される。クラスの出世頭として羨ましがられたりやっかまれたりしていた奴が、あっさり死んでしまった。いくら出世しても死んじゃあしょうがない。生きているだけ儲けものなのだ、とわが人生を顧みる気分が、春の雪に濃い。

  手鞠唄母のふるさと子は知らず      石川 敏子

 「子は知らず」とは、子を連れてふるさとに帰ったことがないということではないか。母の両親が早く死んだのか、あるいはふるさとに帰れない事情があるのか。ふるさとを子に見せてやりたいと思いながら、それができないのだ。手鞠唄の季語が切ない。母の心の中には、ふるさとに暮らし、正月には手鞠をついたなつかしい記憶がある。
 作者はこの句の母なのか、子なのか。そのあたりは詮索する必要もない。ただそんな母と子の生きざまがあることに心を寄せればよい。

  臘梅の花月光を匂はしむ         竹岡 江見

 咲きほころんだ臘梅に月の光が差している。臘梅の香りがよいのは分かりきっているからわざわざ言うまでもない。しかし、あれは臘梅の花が月光を匂わしているのだと見方を変えると新鮮な眺めになる。地上の春の訪れに宇宙が呼応しているようなスケールの大きさ。何より臘梅の冷たい香りは月の光に似合う。

  風船を離して寡婦となりにけり      喜納とし子

 寡婦となった身を心象風景的に眺めた一句である。手を離れた風船はみるみる高くへ昇ってしまう。そんなあっけなさが、寡婦となった何年かを経て、この映像として作者に棲みついた。背景が何も目に浮かばない単純化がよい。私は赤い風船だけを想像した。何もない春の空間に一人取り残された境遇に、「けり」の切字が作者自身を潔く突き放す。

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