今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  宵宮や星霜を立つ大欅          天地わたる

 高浜虚子と「ホトトギス」の仲間たちによって昭和五年から百回にわたって催行された「武蔵野探勝」は、俳句吟行の記念碑的先蹤である。吟行地は多彩だが、虚子の当初の狙いは京洛の景色に対して関東特有の武蔵野の景色を見出そうというものだった。虚子の選んだ第一回の吟行地は府中に鎮座し武蔵国の総社である大國魂神社の欅並木。虚子は人の暮らしとともに幾年月を経て蒼古たる欅の姿に最も武蔵野らしい趣があると認めていたのである。
 鷹中央例会で掲句の名乗りを聞いた時、作者の天地さんの住まいは府中だと思い出した。ならばこれは大國魂神社の例大祭の宵宮なのだろう。堂々たる風姿の一句である。もっとも読者はそれに限らず自分の知る欅を思い出せばよい。「星霜を立つ」の措辞がとりわけ充実している。星霜とは歳月のことだが、人の暮らしを守って梢を広げた欅が、星が巡り、霜が降りる具体的なイメージによって雄々しく荘厳されるように感じられるのである。

  柩には一人きりなり桜桃忌        吉岡 朋子

 太宰治の命日は六月十三日だが、桜桃忌は同月十九日に修される。愛人と玉川上水に身を投げたと推定されるのが十三日、遺体が発見されたのが太宰の誕生日に当たる十九日だった。互いに腰紐で固く結び合っていたそうだが、その絆は解かれてそれぞれの柩に納められたのだろう。
 吉岡さんはそれを不憫に思うとともに、どんなに愛し合っても死んだら一人きりになるのだと気づかされたのだ。太宰の不憫は、私たちすべての不憫でもある。

  はづかしく死にたる津島修治の忌     有澤 榠樝

 津軽の名家である津島家にとって、愛人との心中など「はづかしく死にたる」以外の何ものでもない。あえて本名の「津島修治の忌」としたのはそういうことだろう。突き放した言い方に見えるけれど、そのはずかしさに作者は共感を寄せているのだと思う。本名の枷を振りほどいて太宰治らしく死んだことを称えてやりたいのだ。

  桜桃忌男を傘に入れにけり        喜納とし子

  困っている男に手を差し出す。それが例えば傘に入れてやるということでもよい。そこから男と女の物語は始まるのだ。袖振り合うも他生の縁、前世の因縁はやがて二人を雁字搦めにしていく。軽く詠まれているけれど、これはこれで怖い桜桃忌の句だと思った。

  ホテルバー青く灯せる五月忌       岸  孝信

 王朝貴族にとって陰暦五月は物忌みの季節で、身を浄めて謹慎しなければならなかった。「源氏物語」の光源氏や頭中将も然り。「長雨、晴れ間なき頃、内裏の御物忌さし続きて」と始まる帚木の巻の「雨夜の品定め」は、禁欲を強いられたつれづれに好みの女性像を語り合う場面である。
 「ごがつき」とは誰の忌日か、といぶかしんだ者は勉強不足を反省すべきだが、現代の生活に「さつきいみ」の習わしは残っていないから無理もない。掲句は物忌みの男たちのやるせない気分を現代の都会の一齣に重ねてみせたもの。難しい季語をさらりと使いこなす手腕はさすが岸さんである。

  ぶんぶんやこの手の男捨つるほど     山田東龍子

 「この手の男」と言いながらどんな男か説明はない。しかし、かなぶんを取り合わせただけで、凡そ想像はつく。あっちの集まりに首を突っ込んで噂を仕入れては、こっちの集まりに出て耳打ちする。そうやって飛び回っている男が作者にすり寄ってきた。あのぶんぶんのような奴だと舌打ちして、さっきから網戸に体当たりを繰り返すぶんぶんを見遣る。


  坊様の七五調なる業平忌         古堅 美代

 坊さんが和讃を唱えているのだろう。意味の解らぬ読経と違って七五調でやわらかい。それが業平忌らしくてしっくりきたのだ。坊さんがなかなかの美貌だったことなども想像されて、なんとはなしにユーモラスな句である。

  陶枕に覚めてアジアの端の端       岩永 佐保

 昼寝から目覚めたのだろう。暫時の夢に陶枕の図柄に遊ぶ唐子のささやきでも聞こえていたのか、まだぼんやりした頭で自分が今アジアの端の端にいることを感じている。
  合歓咲いて驢馬のやすむに足りる影       佐保
 夢の中では遙か西域の木蔭に身を寄せたらしい。こんな昼寝を私も楽しんでみたい。

  妻と子のづかづか通る昼寝かな      橋本 耕二

 悠々たる佐保さんの昼寝に対して、こちらの昼寝はいじましい。坐蒲団を二つに折り、卓袱台の傍らでごろんと横になった。いつものことだから家人は遠慮なく枕元を行き来するが、うるさいなと思いつつかまわずまどろむ。こんな俗世の昼寝もまたいい。

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