今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  玄関に朝日の時間秋の蜂        中村恵理子

 玄関に朝日の当たる時間──新聞を取りに出て今朝の天気を見上げ、やがて朝食を済ませた家族を一人ずつ送り出す。「朝日の時間」とは我が家の玄関が一日のうちでいちばん玄関らしくある時間なのだ。何か変わったことがあるわけではなく、いつものように繰り返される時間なのだが、家族が年をとるにつれてその時間の表情も変わる。そして繰り返しは永遠に続くわけではない。
 秋晴の張りつめた空気を振るわせて蜂が飛ぶ。日常のなんでもない時間がほんの一瞬動揺し、すぐにまたなんでもない時間に戻る。しかし、そのなんでもない時間が作者にとってはかけがえのない時間なのだ。作者は小諸に住む。この句はどこであっても成り立つけれど、時代から忘れられたように古びていく小諸の町がとりわけよく似合うように思う。

  カルテ庫に眠る名前や冬隣       兼城  雄

 カルテが保管されている病院の一室。ときどき灯りが点いて誰かがカルテを探しに来る。カルテが見つかればまたしんとした暗闇に戻る。
 カルテが眠るというのであれば平凡な擬人化だが、この句はカルテ一つ一つに記された人の名前が眠っているとしたところに工夫がある。やがて呼ばれて目を覚ますことが予期されているのだ。名前が眠っている限り、その名前の持ち主はどこかで元気に暮らしていることだろう。できればずっと眠らせておいてやりたかった。そう思いながら、作者は或る名前を目覚めさせに来たのだ。冬も近いと感じた季語の取り合わせがそう感じさせる。

  送火や明日はホームにかへす母     斎木 広美

 老人ホームに預けている母を、盂蘭盆会の間だけ家に連れて帰ったのだ。母にとっては久しぶりのわが家、畳に蒲団を敷いて眠るのもうれしいことだろう。外泊中の介護は一苦労だが、東京や大阪から帰省した子どもたちも交えて、古い家にたくさんの灯りが点り、にぎやかな談笑が響く。
 そのような背景から一場面を切り取った季語が絶妙だ。父は冥界から、母はホームから呼び寄せて、盆の数日を一緒に過ごさせてやったのだ。今父を送り、明日は母をホームに帰す。静かに炎を見つめる母の胸に去来するものを思う。

  遠泳にからだの長くなりにけり     清水 右子

 奇妙な句だが、言われてみればそんな感じは確かにある。足のつかない海を波にもまれつつ半ば漂うように泳ぎ続けると、いつの間にかからだの留金がゆるんで伸びてしまった気がする。「長くなりにけり」と潔く言い切ったことで、いくらか気味の悪さをともなったおかしみが生まれた。実際に長くなったからだを曳いて泳ぐ作者をイメージしてよい。泳ぎながら作者の頭に浮かんだのはまさにそれなのだから。

  大楠の影ちぢみゆく大暑かな      亀田紀代子

 朝は地面にたっぷり木陰を落としていた楠の大樹。日が高くなるにつれてその影がじりじりと縮んでいく。真夏の太陽に圧倒された敗北感がにじむ。小さく凝った濃い影と地べたの輝く日向のコントラストが鮮明だ。

  汗拭くや坂が苦労になつてきし     中村 哲乎

 俺も年をとってきたなあ、とこんな時に思うのだ。若いうちはそこに坂があることさえ気づかなかったわずかな勾配でも、急に足が重くなってやたらに汗をかく。こんな坂の多い町に家を持つんじゃなかった。一般論で老いを嘆いても仕方ない。この句のように具体的だと、嘆いてはいてもまだまだ人生に前向きだと感じられる。

  針箱に子の校章や夜の秋        片野 秋子

 子の制服を処分する際、名残惜しさに校章だけ剝ぎ取って針箱に入れておいた。卒業した子は社会人になり、やがて実家を出て新しい家庭を築く。現実の子の時間はずっと先へ進んでも、この針箱には昔のままの時間がある。

  カーテンの向かうの夜や終戦日     田中  恵

 灯りの点いた部屋。カーテンで仕切った内も外も夜であることに変わりないのに、あえて「向かうの夜」と言い、終戦日だとしたことで、カーテンの向こうの世界がにわかに危うさを帯びる。灯火管制の夜はまさにこんな感じだったのだろう。カーテンを開き、住み慣れた街の灯に安堵する。

  短夜を逃げろとテレビからなのか    竹岡佐緒理

 夏の夜もしらじらと明けかかる頃、「逃げろ」という声を確かに聞いた。空耳だったのか、テレビから聞こえてきたのか、作者にも定かではない。逃げろって何から逃げるのか、この部屋からいったいどこへ逃げればよいのか。現代社会の閉塞感、そこから脱出しなければ自分を見失うのではないかという焦燥感が、まるでテレビが救い主であるかのような不思議な一句になった。

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