今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  春虹のほとりに傘を忘れけり      宮本 素子

 電車に乗って一駅か二駅、いけない、あの店に傘を忘れてきた、と気づいた。雨が上がっていたからうっかりしたようだ。振り返ると傘を忘れたその街の上に虹がかかっている。雨上がりの水蒸気と差し込んだ日の光が虹を生むのだ。風景全体が春めいて潤っている。
 傘を忘れてきたことと春の虹を取り合わせて一句にする、「鷹」の作者ならばたいていそうするし、私もそれを推奨する。季語には下手に手を加えないほうがよい。季語は離して取り合わせるだけにしたほうが、読者の連想を自由にして句に広がりが生まれる。ところが、掲句の場合は取り合わせにしてしまっては物足りない。傘を忘れてきたのが虹のほとりだと見たことで作者も読者も朗らかな気分になれるのだ。さっきまでいた街がもうなつかしく思われる。

  曝しけり社史と定年感謝状       原 信一郎

 周年記念行事として社史を編纂し社員に配る。歴史の長い大企業ともなると社史も分厚い。家に持ち帰っても邪魔なので会社に置きっぱなしという人が多いだろう。しかし、定年退職となれば処分するか持ち帰るしかない。作者は捨てかねて持ち帰ったのだ。押入にでも放り込んであったそれが会社の感謝状と一緒に出てきた。
 黴くさくなったそれを持ち出しぱらぱらめくる。いっときは懐旧の念にかられたが、すぐに飽きて放り出した。現代の生活で書物の虫干などすることはないが、縁側で風を受ける社史と感謝状はいかにも曝書という風情だし、それらが作者の会社人生のささやかな誇りのようにも見えてくる。

  魔羅岩に(つび)岩に散る山桜     志田 千惠

 魔羅は男性の、は女性のシンボルである。このような岩は多産を願う土俗的な信仰と結びついて全国各地にある。
  年の暮金精さまも洗ふとか       飯島 晴子
  陰(ほと)岩(いは)を蹴りもしてみる寒さかな
 晴子が晩年の彼女らしいユーモアを込めて詠んだこれらも同様のものだろう。それに対して、志田さんのこの句は崇高な趣さえある。魔羅とという言葉の語感によるものか。山中で静かに落花を受けるそれらに作者は畏敬の念を覚えて見入っている。それがまたユーモラスと言えば言える。

  魚になる枝垂桜にふれてより      小島 征子

 感覚の句だから共感できる人もいればできない人もいるだろう。肝心なのは作者自身が迷わず言い切ることだ。私は満開の桜の散る中を歩くと自分が水脈を引いている気になる。だから「魚になる」には共感できた。「魚になる」を前に出した倒置形もこの句にはよい。桜の花房に触れた瞬間のはっとした感じが上五で突きつけられるのだ。

  春めくや朝まだきなるパン屋の灯    田中 伸明

 自分自身の生活実感を大切にして句作に励む若い作者である。朝まだきとはまだ夜の明けきらぬ早暁。町は眠ったように静かだが、自家製のパン屋なのだろう、早くから灯を点して準備にいそしんでいる。作者はそんな時間に何かの事情で出勤することになったらしい。だからこそ見慣れた町の表情がいつもと違って新鮮に眼に映り、春めいた気配を肌身で感じることができているのだ。

  春昼のピアノ弾く指綾なせり      池上 陽子

 春昼は近代になって生まれた季語である。夏には炎昼があり、秋の昼も詠まれるが、季語としての成熟は春昼に及ばない。どこか物憂く、けれども艶やかな静けさ、そんな本意ができあがっている。
 掲句はその春昼の本意をよく生かしている。ピアニストのなめらかな指の動きは、ピアノの弾けない私にも憧れをともなって美しく「綾なす」と見える。気取った言い方ではあるが、それが春昼の気分に似合っている。

  七曜の献立表や夏に入る        荒谷  棗

 一週間分の献立とは普通の家庭の食事ではあるまい。病院や老人ホームといった施設の献立表、あるいは宅配弁当の献立表といったところか。ほんとうは自分で料理したいが、それができない事情があるのだ。そこにさりげなく現代が切り取られている。それでも献立表に筍飯など見つけると夏が来たかとうれしくなる。七曜と言ったのが、山口誓子の「麗しき春の七曜またはじまる」を思い出させてよい。

  いかなごや上燗にして灘の酒      山賀 花女

 鮊(いかな)子(ご)という季語は神戸に暮らすと身近な存在である。三月初め頃に播磨灘でその稚魚の漁が解禁になると、スーパーや魚屋で一斉に売り出す。一般の家庭でもそれを何キロも買って佃煮にする。折釘のように見えるのでこれを釘煮と称する。近所に裾分けしたり、遠い知人に送ったり。まさに春先の風物詩だ。いかなごの釘煮が肴となれば、酒は御当地の灘。辛口の酒を上燗でという心映えがうれしい。

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