今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  海明やパーマ屋に客一人あり      氣多 驚子

 海明が季語である。流氷が沖に去って船を出せるようになること。インターネットで海明を検索すると、毛蟹を売るサイトがずらっと並んだ。流氷が去ると毛蟹漁が始まるのだ。流氷の下の豊かなプランクトンを食べた毛蟹は旨いらしい。漁港も活気づいていることだろう。
 掲句はそんな季節のオホーツク海沿岸の町の情景である。パーマ屋という言葉が時代がかっているが、その言葉に似合う風情の美容室なのだろう。扉を押し開けると、鏡を前に客は一人、主人と同時にこちらを向く。こんなシーンで始まる映画があってもよさそうだ。
  漫才師ひとり永らふ桜かな          驚子
 その映画にこんな漫才師が出て来ても悪くないだろう。

  野の光野に漂へり蝶の翅        遠藤 蕉魚

 春の野を風が吹き渡る。草が靡き光が波のように走る。その光は野を出ることはできない。野に現れ、野を漂い、そして野に消える。下五が意表を突く。この蝶の翅はどういう状態でそこにあるのか。生きて飛びめぐる蝶とは思われない。そこにはただ一片の蝶の翅があるだけなのだろう。それは何を象徴するのか。福島という土地が作者の心に働きかけた一句とも見える。

  勝訴せる人の沈黙春夕焼        蓜島 啓介

 記者やカメラマンが待ち構えるところへ法廷から走ってきた男が「全面勝訴」と大書された紙を誇らしげに広げてみせる。記者会見では勝訴の判決を得た感激がテレビカメラの前で語られる。判で押したような光景をどれほどニュースで見たことか。それが勝訴というものの常識だと言ってよい。
 それに対して掲句の勝訴は勝訴らしくない。勝ったはずの人は押し黙っている。そもそも争いたくなどなかった。だから勝ったと言っても後味は苦い。マスコミは「らしさ」を求める。勝訴ならば勝訴らしさ。しかし、人間の真実はしばしばその「らしさ」から一歩離れたところに現れる。

  逝く春の人形焼の小槌かな       志賀佳世子

 どこがどうおもしろいのか、説明は難しいのだが、一読して、ああ、俳句を読んだという満足感がある。七福神の顔を模した人形焼にまじって、たぶん大黒天のものであろう小槌の形をした人形焼があった。それだけのことなのに、惜春の気分は存分に伝わる。その小槌を割れば香ばしい皮と甘い餡の香りが立ち上ることだろう。

  春の浜深く息吐き波かへす       田辺 幸吾

 春の砂浜に沖から繰返し波が寄せて来る。波頭が崩れ、次の波に誘い込まれるように波が引く、そのとき波が深く息を吐いたと作者は感じた。それは私にも納得できた。擬人法だが、頭で簡単にこしらえたものではなく、波の轟を繰返し全身で感じた結果なのだと思う。

  初花や墓地の一角マリア告る      佐藤すみれ

 マリア告(の)る、つまりマリアの名を唱えたのだ。この下五が巧い。墓地の一角でキリスト教式の葬儀が営まれているのだろう。仏教式の葬式とは違う清楚で敬虔な様子に、作者は心洗われる気がした。しかも、その様子はすっかり日本の風景に溶け込んでいる。初花の季語に作者の印象がそのまま表れているようだ。

  白樺のまぶしき春のこげらかな     前原 正嗣

 春の高原の林中を実際に歩いて受けた印象を詠んだものだと感じる。こげらは啄木鳥の仲間だから秋の季語である。しかし、留鳥だから年中日本にいる。歳時記を片手に机上で詠んだのでは秋だという制約を離れにくいだろう。実際に自然の中に入ったからこそ出会えた光景なのだ。地面にはまだたっぷり雪が残り白樺に照り映える。まぶしさに目を細める作者に、こげらの幹を叩く音が小気味よく聞こえて来たのだ。

  傘閉じて空の広さよ風生忌       引間 智亮

 雨上がりである。傘を閉じて空を見上げる。潤んだ空に青空が覗いている。久しぶりに仰ぐ空だ。風生忌は二月二十二日。まだ空気は冷たいが、世界はやわらかな光に満ちている。風生の「街の雨鶯餅がもう出たか」を想起させるところが心憎い。そして風生という字面も実際に風を感じさせて効果的。風生に寄せる若々しいオマージュである。

  廃校が音喰ふ昼を春の下駄       竹岡 一郎

 しんと静まり返った廃校がある。それを廃校が音を喰っているのだと見てとった。この擬人法は写生としてはたいしたことはないが、「喰ふ」の一語から、まるで廃校が生徒を食べてしまったような印象が生まれるのがおもしろい。その静けさを履く人のいない下駄がカラコロと歩む。取り立てて何の思想もないようなのが私には心地よい。

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