今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  春障子夕轟に目覚めけり        上島 伸子

 恋の句である。若い頃のようにまっすぐ突き進む恋ではない。人生経験のもたらす慎みが身の内に思いを沈める。けれどもその火はけっして消えることはない。掲句はそんな大人の恋の句である。
 夕(ゆう)轟(とどろき)という言葉が魅力的だ。「恋情などのために暮れがた胸のさわぐこと」(広辞苑)、用例は平安時代の和歌に遡る。うららかな春の午後、障子を閉めきった部屋でうたた寝をしていたのだろう。夕日も消えかかる頃に恋心が募ってはっと目が覚めた。春障子の季語がこれほど美しく映える句を他に知らない。

  翠黛の雲を霞と鶴引けり        入村 正人

 美しいといえばこの句も言葉の美しさを極めている。翠黛はみどりのまゆずみ、転じて眉のように美しい山を言う。そこに棚引くのは雲か霞か。画中のような風景を鶴が北の地へと飛び立つ。思わず陶然と見惚れてしまう。
 しかし、「雲を霞と」というのは一目散に行方をくらますさまをいう成語でもある。となると美しい景色も一転して鶴がひどく俗っぽくなる。二つのイメージを重ねたところが俳諧。したたかな句だ。

  春の雪柩に入るる靴磨く        奥坂 まや

 柩に何を入れたというのは類句が山をなしているからやめたほうがよい、そう私は繰り返している。その類句の山を平然と跨いで地面に新しい足跡をつけたような句である。
 どこが違うのか。柩に何を入れたというのは報告である。柩に入れるために靴を磨いているのは情景である。報告は常識的になりがちである。しかし、情景には作者の心情が滲み出る。靴を磨くという最も日常的な行為が、掲句では非日常として描かれる。すると当たり前だと思っていた日常も揺らぎ始める。日常とはいつか来る非日常の入口なのだ。

  淡雪や天神さんの日の市バス      古賀 和世

 京都に暮らす人らしい偶感だ。毎月二十五日は北野天満宮の縁日で賑わう。今日はどうもバスが混んでいるなと思ったら天神前でどっと空いたのだ。外は春の淡雪がちらついている。となれば天満宮の梅もほころぶ頃か、と思わせるところも巧い。市バスというおよそ詩的な気取りのない言葉がこの句の庶民的な味をもたらしている。

  歌よみに小脛見せたり冬の鷺      植苗 子葉

 鷺が冬の浅瀬に立っている。よい題材を見つけたと歌よみが目を瞠る。鷺がすっと片脚を水から抜いて前に移す。歌よみは目を凝らす。はっきり言って、へんな句ではある。
 「小脛見せたり」が妙になまめかしい。着物の裾を引き上げて女が白い脛を見せたようだ。歌よみとは作者自身なのだろう。真顔で言っているからなおさらおかしい。

  猫の恋漬菜酸つぱくなりにけり     天地わたる

 老練な取り合わせである。恋猫が表で騒いでいることと漬菜が酸っぱくなったことに因果関係はないのだが、両者相まって陋巷に春が来た気分が濃くただよう。「糠味噌が腐る」という常套文句は隠し味程度に思い浮かべればよい。

  春浅し台車ひびけるアーケード     半田 貴子

 朝の商店街か。開店前に店に商品を運び込む台車ががたがたと押されてアーケードに響く。見たままの光景だろう。ほとんどの人は俳句にしようとも思わず通り過ぎる。しかし、ここには確かに春まだ浅い街の表情がある。半田さんは自分があれこれ言うのではなく、材料に語らせるのが巧い作者である。材料がよければそのままでおいしく味わえる。

  東風吹くや栄転先の北の国       青木 素子
  知らぬこと知らぬと言へり新社員    吉川 典子

 サラリーマンの悲哀に共感を禁じ得ない。
 青木さんの句、栄転だと送り出された北国で厳しい冬を過ごし、やっと春を迎えたのだ。上五はもちろん道真の「東風吹かば」を踏まえている。けれどもこの句、意外と気分は明るい。地方のゆったりした生活の中で、会社の出世とは違う価値観に目覚めた。そんな心に梅の花が香ってくる。
 吉川さんの句の本当の主役は、新社員に「知らぬ」と言われた上司なのではないかと思う。そんなことも知らないのかとあきれつつ、少しも悪びれない新社員を前に、時代は変わったのだと自分を慰めるのである。

  麦を踏む言つて聞かせるやうにかな   加藤 静夫

 バットの真っ芯でボールを捉えた。そんな感じの小気味よい比喩である。今まで誰もこう思わなかったのだろうか。そう言いたくなるほどこの句の比喩は麦踏らしい。「背伸びするなよ」、「しっかり根を張れよ」。どこか処世訓が聞えてきそうなのも加藤さんらしい。

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