今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  粥占の粥まみれなるもの削げる     南 十二国

 粥占は新年の行事。小豆粥を炊く釜に篠などの筒を束にして浸けておき、筒に入った中身でその年の農作物の豊凶を占う。全国各地の神社に伝わっているが、南君もその一つに取材して今回の連作に仕立てたようだ。粥占の仔細を説明しても、掲句の鑑賞にはなるまい。南君は一句一句自分なりの描写を重ねながら、最後のこの句では描写を越えて行事の本質を摑もうとしている。その決め手は「もの」だろう。
 高浜虚子は「もの」を多用した俳人である。

  大いなるものが過ぎ行く野分かな       虚子
  もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
  去年今年貫く棒の如きもの

 これらの俳句は、「もの」を具体的に描写しないことによって、具象の奥に存在する何かに肉迫している。
 南君も粥占の筒などと具体的に言っては上辺にとどまると感じたのだろう。神事の象徴するそのものをじかに捉えようとした「粥まみれなるもの」である。描写をさぼったわけではない。一つの素材に粘り抜いた末にこう言うしかないと行き着いた表現なのだと思う。
 「鷹」の作者は総じてこのような行事の季語そのものを詠むことが不得手だと思う。それは「鷹」の作者が取合せを得意とすることと表裏をなす。南君もまた取合せを駆使して頭角を現した作者であるが、ある時期から取合せによらない俳句にも独自の意欲を示すようになった。今回の粥占の連作もそうした挑戦の一環と言えるだろう。

  冬銀河猟狗ざくざく肉啖(く)らふ    島田みづ代

 島田さんも連作だった。どうやら熊猟に取材する僥倖に恵まれたらしい。「撃たれ崩るる熊の時間やぼたん雪」「贄として捌く肉塊谿凍つる」といった句に続いて掲句がある。仕留めた熊の腑分けがようやく終わり、空きっ腹の猟犬たちにも分け前が与えられた。猟狗という言葉に迫力がある。非日常の緊張と興奮がそのまま俳句の姿で立ちあがっている。

  休日の時間ひろびろ木の実ふる     兼城  雄

 大半の作者は、中七で「時間たつぷり」とやるところだろう。それでは人と同じでおもしろくないというところからこの句は出発している。空間の広さを表す「ひろびろ」を持ってきたことで新鮮な一句になった。スケジュールに追われない休日の時間に解き放たれた心を感じることができる。「木の実ふる」から公園のベンチにでもいる作者が想像できる。空間の「ひろびろ」に支えられて、時間の「ひろびろ」が自然に受け入れられる。
 大半の作者はなぜか人と同じであることで安心している。そこはゴールではない、踏み出すべき出発点なのだ。

  干布団午前の日差使ひ切る       舟木 和子

 午後から出かける用事があるのか、あるいは午後からは天気が崩れるという予報でも出ているのか。それでも朝からのこの日差しを使わないのは勿体ない。午前中にしっかり布団を干せたという満足感が、「午前の日差使ひ切る」のきっぱりした表現に出ている。

  雨戸立て箱となる家冬浅し       龍野よし絵

 太田明美さんの新葉賞受賞作の中の次の一句を思い出す。

  小鳥来る小箱のやうなわが家かな       明美

 どちらも家を箱に見立てているが、読後の印象は異なる。太田さんの句が自己愛の詩的な表出と思えるのに対して、掲句はより即物的。雨戸を立てたとたんに家が箱になった。そう感じた作者の一瞬の驚きが読者に伝わり、やがてその箱の中に冬籠りする生活へと連想が広がっていく。
 仲間の俳句から俳句を作るな、と私は最近繰り返し言っている。つまり仲間内で似たような材料や表現を使いまわすなということなのだが、この両句のような影響の受け方、そして発展のさせ方は悪くないと思った。

  家族みな本読んでゐる炬燵かな     中村みき子

 この句はただちに山口青邨の次の名句を思い出させる。

  人それぞれ書を読んでゐる良夜かな      青邨

 天上から見通すような青邨の句の格調の高さに比して、掲句はいかにも卑俗である。しかし、その卑俗さもまた人生の真実なのだ。一つの炬燵に当たりながら、家族それぞれが本を読み耽っている。団欒というには程遠いが、仲が悪いわけでもない。青邨の句を意識してあえて作ったのなら、たいしたしたたかさである。

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