今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  夕顔に食のすすむと母の箸       岡田 文子

 さりげなく詠まれているが、親子の情のこまやかに通った一場面を垣間見るようである。庭に夕顔の咲く夕べ、昼間の暑さも落ち着き、いくらか涼気を帯びた風が窓から入る。ここしばらく母の食が細っていたことが言外に語られている。その母が、今日はごはんがおいしいと言って、せっせと箸を口に運んでいる。箸の動きをほっとして見守っている作者の心の動きが手に取るように感じられる。型通りの作り方ではないのに、すべての言葉がしっくり据わっている。
 そして次の句がある。

  あつけなく逝きし部屋なり花八ツ手     文子

 あっけなく逝ってしまった母は、鷹同人だった岩波と志さんだ。小春日に残された部屋を眺めるにつけ、夕顔の場面がしみじみと思い出されるのである。

  萩咲くや笑顔の母の近餓(ちかがつ)え  折勝 家鴨

 近餓えとは食べてすぐまた食欲を催すこと。私は俳句を始めてそれまで知らなかった言葉をずいぶん知った。それでもなお知らない言葉はたくさんあるものだ。
 おそらく認知症の母なのだろう。さっき食事を済ませたばかりなのに、すぐに忘れてにこにこと腹を空かせている。夕顔と言い、萩と言い、季語は平穏な家居の風景を思わせるけれど、岡田さんの句とは描かれた事情が異なる。いま多くの日本人が直面している問題にさらりと触れながら、近餓えという耳慣れない言葉が、母がもう母でなくなってしまったような作者の戸惑いを表しているようだ。

  木霊棲む空(あ)き懐やななかまど     宮木登美江

 空き懐とは抱くべき子のない女の懐のことと広辞苑にある。宮木さんの俳句を通して初めて知った言葉も少なくないが、この空き懐はとりわけ衝撃が強い。
 子宝の湯を謳う山中の温泉場でも想像しようか。ななかまどの実も葉も真っ赤に色づいて女の寂しさを燃え立たせる。

  今し落ち銀杏清し雨弾く        濱田 ふゆ

 たった今、作者の目の前で落ちた銀杏である。まだ通行人に踏まれることもなく、美しい黄金色の肌が降る雨を弾く。銀杏といえば、人に踏まれて舗道を汚し、悪臭紛々の惨状を呈するのを見慣れている。だからこそこの句の「清し」が新鮮に響く。ただし、無駄な助詞一つなく引き締まった文語の調べの助けがあってこそ生きた「清し」であることを見落としてはいけない。

  朝顔にみづの匂ひの日の当たる     森  直樹

 朝顔に対して水の匂いはけっこう詠まれていると思うし、日が当たるのも当たり前のことだ。ところが、「みづの匂ひの陽」だと言われると、季節の推移に対する繊細な感受性に驚かされる。

  明日は白き小石にならむ残る虫     木内百合子

 初冬の野にまだわずかに鳴く虫がいる。あの虫たち、夜が明けたら白い小石になっているだろう、と作者は思う。蟋蟀と小石に形のうえで似たところはないのに、この句は不思議と納得がいく。白い小石は、生きて鳴く蟋蟀に対して、声も、色も、そして命も失った無の状態を暗示していよう。しかし、一句の趣は、そんな理屈ではなく、胸に沁みるような詩情で私たちを納得させてしまう。

  秋深し片目自転車川に浮き       後藤 義一

 町の川に自転車が打ち捨てられているのだろう。川の水量が減るとその姿を水面に曝すのだ。「片目自転車」に現実とも幻想ともつかない迫力がある。ライトが片方失われていると取りあえず現実的に読むことはできるが、「秋深し」の季語と相まって、読後の印象には人間の目のような自転車の片目がぎょろりと見開かれている。

  初冬や口中の白湯丸く飲む       野田まち子

 俳人は白湯が好きなようだ。俳句で見る限り、何かというと白湯を飲んでいるように見える。試しに飲んでみると、なるほど穏やかな気持になって悪くない。
 それだけに白湯の句には類想が多いが、この句の「丸く飲む」にはとても感心した。ほんのり甘い白湯をゆっくり口に含むようにしてから飲みこむ。確かに「丸く飲む」である。

  菊人形膝に置く手の浮いてをり     野手 花子

 客観的な写生である。書かれているのは見たままの事実で、主観的な表現は用いられていない。しかし、この句には作者の強い主観が感じられる。菊人形を描くのにどこに着目するか。切口を探す目に主観が働いているのだ。
 膝は菊の花の衣に覆われている。そこにマネキンのような手が置かれている。よく見るとその手は膝から浮いている。そこにまがいものである菊人形の本質が露呈しているのを作者は見逃さなかったのだ。

Copyright (C) 2007 鷹俳句会 All rights reserved.