今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  夜の秋舞台いきなり海の音       日髙 智子

 西日の照りつける街から劇場に入って席につく。予鈴が鳴る頃には汗も引いた。静かに照明が落ち、舞台が闇に包まれたところで、いきなり海の音がして芝居が始まる。作者の心も一気に芝居の世界に引き込まれてゆく。
 観劇を材料に俳句を詠むのは意外と難しいものである。密閉された劇場の空間は季語に乏しい。夏ならばハンカチ、扇子、香水といった小道具を使えば詠むには詠めるが、舞台そのものから受けた印象をそのまま捉えて一句にするのは容易ではない。掲句の夜の秋はその点とてもよく働いている。劇場内に満たされた闇と舞台の海辺の気配、現実と虚構が一つになって、夜の秋の気分が横溢する。

  幕間のサンドイッチに灯の涼し     太田 明美

 白い紙の小箱を膝に開き、薄い紙の手拭きで指を湿して、きれいに収まったサンドイッチを抓む。芝居に集中した頬のほとぼりが、すっと冷める心地がする。

  日曜の家族のかたち梅雨明ける     仲間  健

 平日の間は仕事、学校、家事など家族それぞれに決まった一日の流れがある。日曜日はそうした毎日のリズムが緩む。子どもが小さければ揃って出かけもするが、作者の年齢はもうそんな時期を過ぎた頃ではないか。特に何を一緒にするでもなく、それぞれが家にいる。その何でもなさにこそ作者は家族のかたちを感じたのだ。それは私にも共感できる。
 梅雨明けの季語はそんな家族のありようを肯定的に見ている印象を残す。先月取り上げた清田檀さんの「船室に家族の時間さくらんぼ」とも通底する家族像である。

  父のため作る一間やゆすらうめ     辻内 京子

 年老いた父をわが家に迎える。ふだん使わない和室を片付けて父のための一間を作る。客布団を押入に収め、卓袱台や電気スタンドや座布団など用意する。実家で独り暮らしを続けていた父をいよいよ引き取るのかもしれない。社会人になった子どもの部屋が空いたのを潮時に。
 辻内さんも現代の家族のかたちを折に触れて詠ってきた。この句の力は、一間を作るという具体性にある。父が泊まる、父を引き取るといった事柄を述べただけでは伝わらない確かさがあるのだ。その一間の様子が思い浮かぶから、庭につややかな赤い実をつける山桜桃の取り合わせも映える。

  父の日や七本継の鱮竿         栗原 修二

 タナゴ釣は獲物の最も小さい部類に入る釣である。食べられるわけでもない。ただの慰みである。その慰みのために七本継の繊細な竿を丹精する。この句から連想すべき父は、作者の老いた、あるいは亡くなった父親か、それとも作者自身か。私は前者をとる。タナゴ釣が好きだった父の面影も、それを眺めた息子の心持ちも、慈しむように描かれている。

  梅雨最中いよよ糠床頼もしき      向井 節子

 食べものにすぐ黴がはえ、蒸暑さに食欲も減退気味の梅雨どき。それでも手をかけた糠床があれば、毎日の食事に色よく漬かった茄子や胡瓜をもたらして楽しませてくれる。「頼もしき」には、その糠床を暮らしの相棒のように大事に思っていそいそと掻き混ぜる作者の表情まで窺われる。

  友を待つ泉に十指ひたしけり      蓜島 啓介

 そう書いてなくてもそうとしか思えない。そのように描く技はあるものだ。この句の十指はどうしたって白くて細長い指でなければならない。友情とはどこか自分自身を愛することにも似ていると気付かされる句である。ただし、誰しもがそのような友を持てるわけではない。
 先月の「十秒で牛丼と夏来たりけり」も愉快な句だった。さまざまな扉を開け閉めできる作者である。

  筍を括りママちやりフェリー待つ    加儀真理子

 ママちゃり。日用の自転車でたいてい大きな籠や幼児用の座席が装備されている。俗語ながらこの句をとったのは、あざといほど「り」の音を重ねたこの句の勢いに思わず引き込まれたからである。新語は誰かがこのように勢いよくハードルを越えて初めて俳句の世界に入ってくるものだろう。

  何処までが個人情報夏痩せぬ      志田 千惠

 個人情報の流出が企業の不祥事として報道されることが増えた。儀式のような謝罪会見を何度見せられたことか。騒がれれば騒がれるほど個人の側の意識が刺々しくなっていくようで気になる。昔はもっとおおらかだったはずだが、最近は学校でクラスの住所録を配ることさえままならない。いったいどこまでが保護すべき個人情報なのか。突き詰めれば、名前だって、顔かたちだって個人情報だろう。
 作者はそんな風潮にうそ寒い思いをしているのだろう。夏痩の配合は率直過ぎて詩としてのふくよかさには欠けるが、こういうストレートな俳句も必要だと思う。

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