今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  夕桜子の手をとれば握りくる      黒沢みどり

 公園で子どもを遊ばせていたのだろうか。日は傾き、地面に影が長く伸びた。砂場の玩具をまとめて、さあ、帰りましょうと子の手をとる。その手が作者の手をしっかり握ってきた。それだけのなんでもない一齣である。しかし、その瞬間に作者の体を貫いた感動は、この句の静かな口調にも十分現れている。
 母でもない作者の手をしっかり握らせたのは幼子の素直な心細さである。その心細さがまっすぐ自分に向けられたことに作者は胸を打たれたのだ。桜の花の散りこぼれる暮色に満ちた世界に立ち、作者はむしろこの幼子によって生きる意味を知らされ励まされた気がしたのだ。

  誰も容れぬ大きな瞳卒業す       大岩しのぶ

 周囲に心を開くことを頑なに拒む少女を想像する。美しい瞳は大きく見開かれているが、教師も、友人も、その瞳に受け容れられることはない。黒沢さんの句の「手」、大岩さんの句の「瞳」。具体的に描かれた細部が、印象を確かなものにしている。大岩さんの描く少女は、幼い日にしっかり手を握ってやる大人がいれば、こんな瞳の持ち主にはならなかったろうにと思わせる。それでもいつか、少女の心を開かせる者が現れるだろう。季語の卒業に作者の祈りを感じる。

  春の潮牡蠣殻の山浸しけり       中山 玄彦

 漁港の岸壁の傍らの浜辺に牡蠣殻が堆く打ち捨てられている。そこにひたひたと潮が満ちてきた。派手な情景ではないけれど、それを見つめる作者の感慨はこの潮のようにじわじわ浸みてくるようだ。冬の間、牡蠣が盛んに水揚げされて女たちは牡蠣剥きに精を出したことだろう。そんな漁港の賑わいも去った。一つの季節が去り、次の季節のやって来る、そのことが作者の目に確かに捉えられているのだ。

  城山の谷々かけて囀れる        伊達多喜子

 町中にぽつんと残る城跡ではない。幾筋もの谷を擁し、蒼古とした森に包まれた城山である。作者は仙台の人だからこれは青葉城なのだろう。先月号で取り上げた岩田英二さんの「海苔舟や帰帆に望む城白し」を思い出す。岩田さんの句の「帰帆に望む」、伊達さんの句の「谷々かけて」、朗誦に値する句は中七の調べがよいものだ。

  風やめば囀はたとやみにけり      中江すみ江

 強い風が木立を騒がせる中、それに抗うように一際高く囀が聞こえる。その風が静まったとたんに囀もやんだ。うららかな静寂だけが今、作者の眼前にある。風がやんだら鳥が囀りだしたというのでは常識的。自然はこのように人間の常識を裏切って新鮮な表情を見せてくれる。

  立春や箱を開ければ刺繍糸       佐々木梅子

 押入を整理していて覚えのない箱を開けたところと読みたい。そこに思いがけず色とりどりの刺繍糸が現れた。この箱を前に開けたのはもう何十年前のことだったか。重ねた年が後戻りすることはないが、季節は一巡りしてまた春が戻ってくる。立春の季語が長い年月を一瞬消して、この刺繍糸を使っていた頃のことを鮮やかに思い出させてくれる。

  人生の足音はやし雛納         荒木ひでこ

 これは雛納の季語で生きた句だろう。一年に一度繰り返すことだからこそ雛とともに重ねた年数が身に迫る。雛人形が足早に去っていく足音が聞こえるようだ。年をとると一年の経つのが早いと言う。荒木さんはまだそんな年齢ではないのだが、だからこそ「はやし」と初めて気づいた驚きがこの句にはある。

  春雪の更地の過去と未来かな      藤咲 光正

 街の中にぽっかり出来た更地。そこにはかつて何かが建っていた過去があり、やがて何かが建つであろう未来がある。作者はその更地に降る雪に見入っている。人生における現在とはこの更地のようなものだ。春の雪であることが、作者の眼差しをまだ見ぬ未来に向けさせている。

  淋しさは春の夜の扉を叩くなり     吉野 中瓶

 運命交響曲の「ジャジャジャジャーン」という出だしについて、ベートーヴェンは「このように運命は扉を叩く」と言ったとされる。掲句にそのような荘厳さはない。しかし、コツコツとドアを叩く響きは小さくてもはっきり聞こえる。作者は淋しささえ無聊を慰める友と歓迎するようだ。

  つかの間の夕日に蓬摘みにけり     野尻みどり

 雨上りにつかの間夕日が差した。その間を惜しんで僅かばかりの蓬を摘む。晩年とは、いや、そもそも人生とは、終わってみればこのようなものかもしれない。いつ終わるかわからないからつかの間といえども疎かにできない。野尻さんは最期にそう教えてくれたようだ。ご冥福をお祈りする。

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