今月の鷹誌から秀句の風景
秀句の風景 小川軽舟
水澄むや門の欅に凭るこころ 中山 玄彦
欅は私たち日本人の暮らしにとりわけ親しい木だ。東京の世田谷あたりでも住宅地の中に見上げるような大樹をよく見かける。若葉はみずみずしく、夏には数多の蝉を鳴かせ、秋にはあざやかに色づき、すっかり葉を落とした冬木の姿もまた美しい。暮らしの折々に仰ぎ、季節の移ろいを教えられる木なのである。
そこに家が建つよりずっと昔からあったであろう欅が門の脇にどっしり幹を据えている。その欅を頼もしく感じている作者がいる。門の出入りのたびに幹をたたき、梢を仰ぐ。欅に寄せる親しみは、家の門構えに対する愛着であり、そこに暮らしてきた人生を振り返っての満足感でもある。季語の「水澄む」はそのまま作者の心境でもあるのだ。
門はこの句の場合は「かど」ではなく「もん」と読みたい。心を平仮名にしたあたりも神経が行き届いている。奇をてらわぬ大人(たいじん)の俳句である。
北風やのつぺら坊の店並び 後藤 義一
のっぺらぼうの店とは要するにシャッターを下ろした店ということだろう。商店街を北風が吹き抜ける。かつては八百屋には八百屋の、電器屋には電器屋の、理髪店には理髪店の表情があったが、シャッターを下ろしてはみなのっぺらぼうのようだ。
シャッター街は俳句にもよく詠まれるようになったが、シャッター街という誰かが作った便利な言葉で上っ面を撫でていても実際の切実さからは遠い。この句はそうではない。のっぺらぼうの店が怨嗟の声で作者に呼びかけるような背筋の寒さが読者にも伝わってくるようだ。
冬はじめ手間かけて物捨てにけり 藤田まさ子
「手間かけて」とは、ごみをうるさく分別したり、粗大ごみを出すために市役所に連絡したりといった手間のことを言っているわけではあるまい。やらなければと思いながら延ばし延ばしにしてきた身の回りの整理にやっと取りかかったのだ。押入れの箱からは懐かしいものが次々に出てくる。それらに一つ一つ目を通し、どうしても残したいものは仕分け、思い切って捨てると決めたものをもう一度眺める。そんなゆっくりと時間の流れる手間なのだ。
捨てることが作者にとってどういうことなのかを句末の切字「けり」が語っている。この「けり」は捨てる物への未練を断ち切る「けり」なのであり、「けり」の響きの後には安堵とともにいくばくかの寂しさが余韻をなすのだ。
澗水に洗ふ蔬菜や息白し 光吉 五六
澗水とは谷の水のこと、蔬菜とは野菜のことである。しかし、「谷水に洗ふ野菜や息白し」ではこの句の風韻は消えてしまう。つまり漢語の妙がこの句のいのちなのだ。
深山幽谷の広がる山水画を思い起こさせる。画面いっぱいに聳える奇峰の足許の流れで人物が野菜を洗っている。読者はこの絵の中に引き込まれて、白い息を吐いていきいきと働く農民の姿を目の当たりにするのである。
イルミネーション切りとる冬の水たまり 葛城 真史
LEDのめざましい普及のおかげで冬のイルミネーションはますます華やかになっている。そんな都会の小景だ。
映っているというだけでは平凡だが、この句は「切りとる」の一語が冴えている。イルミネーションを克明に映す水たまりと暗い路面のコントラストが鮮やかに感じられる。イルミネーションを見上げることもなく、襟を立てて俯き気味に水たまりを踏んで急ぐ作者の姿も浮かび上がる。
マフラーをしたまま夜のボウリング 清水 右子
はじめからボウリングをしようと計画して来たわけではなく、親しい仲間との外食の後、誰かが言い出して急にすることになった。コートは脱いだがマフラーはしたまま一、二ゲームやって、次はカラオケに行こう。
俳句の基本は文語である。口語で俳句の文体を作り上げるのは容易ではない。しかし、口語を用いないとその場の気分が伝わらない場合もある。この句の「したまま」を文語に置き換えたら、若い女性たちのはしゃいだ声も聞こえにくくなってしまうだろう。
家事了へし女に逢ひぬ冬の月 南 十二国
このような逢瀬もあるのだ。男には遅くまで仕事がある。女にはその男のためではないのであろう家事がある。女の家の近くの公園で互いの顔を見て声を聞ければそれでいい、という逢瀬なのだ。女の手に塗ったばかりのハンドクリームが香る。冬木の梢の先に上った月の光が清らかだ。
大らかに擬人化された世界観を表す南君の作風にあって異色の句だが、一年前にこの欄で取り上げた、
木犀や恋のはじめの丁寧語 十二国
のその後の展開のようでもある。いずれも青春と呼べる時期を過ぎつつある者の、それでも初々しい恋の詩である。
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