今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  幾重にも浜濡らす波秋惜しむ      兼城  雄

 浜に寄せて砕けた波が、汀を走り、砂に浸みて消える。冷やかに濡れた波の跡が、あるいは弧を描き、あるいは一直線を成して、幾重にも打ち重なっている。
 丁寧に描くことによって、それを見つめた作者の時間が現れる。だから秋惜しむという詠嘆が素直に伝わる。
 兼城君らしさと言えば次のような句かもしれない。

  声使ひきつて秋蝉落ちにけり          雄
  人死んで写真の嵩や秋日差す

 いずれも兼城君らしい非情な観察を伴った知性の働きがある。冒頭の句はそうした知性の働きは抑えられている。その代りに感情の茫々たる広がりがある。一句の声調もそれに適った伸びやかさがある。一見すると地味なこのような句が若い作者の作品世界に風格と奥行きをもたらすだろう。

  鈴虫の落してゆきし小鈴かな      小野 展水

 一読して思い出したのは次の句だった。

  露の玉走りて残す小粒かな       川端 茅舎

 しかし、写生に徹して写生を超える不可思議の世界を現してみせた茅舎の句に対して、小野さんの句は最初から写生など意図していないように見える。それだけ読者に手がかりの乏しいわがままな句だとは言える。
 それでも私はこの句に惹かれる。鈴虫の鳴き去った後に残された小さな鈴を思うのは楽しい。小鈴を思うことによって、さっきまで朗々と響いていた鈴虫の声がなつかしく甦る。かつてこの欄で、同じ作者の、

  いにしへの鈴の音雪の泉より         展水

という句を取り上げたことがある。鈴虫の落した小鈴も振ればいにしえの音を響かせそうだ。それはこの世ならざるものへの憧れがあげた幽かな声なのかもしれない。

  鐘鳴ると時計見上ぐる秋の暮      林田 美音

 近所の寺の鐘が聞こえる。家事の途中で顔をあげて、もうそんな時間かと壁掛時計を見る。電気をつけると思いのほかまぶしく、窓の外はたちまち夕闇に沈んだ。
 鐘の音と秋の暮の取り合わせはいかにも古い。ところが「時計見上ぐる」の中七で作者の身に添ったスケッチになった。秋の夕暮という時間が抱える詩歌の重い伝統に日常の一齣がさりげなくつながった。こういう一齣一齣の発見が伝統詩であり現代詩である俳句を豊かにするのだ。

  甲板に灼けてギターの入門書      堀口みゆき

 水夫が長い船旅にギターとギターの入門書を持ち込んだらしい。寄港地の女に聞かせてやろうとでも思ったか。ギターは船室にあるのだろう。甲板では入門書のページが風に捲られている。日に灼けた表紙がそこに放り出されて久しいことを感じさせる。
 この句はここにいない水夫を詠んでいる。俳句は物にモノを言わせるのである。描かれた物を通して、ギターの練習にも早々と飽きた水夫の無聊が伝わってくる。

  トラックの荷に紐掛けし夕焼かな    合川 洋子

 健やかな労働の句と読んだ。積んだ荷物に幌を被せ紐を掛ける。トラックの運転手の仕事には昼も夜もない。これから深夜の高速道路を夜通し走るのだろう。テレビやインターネットを通じた通信販売はますます増え、早く届けるサービス競争にも拍車がかかる。それを支えるのはトラックの運転手一人一人なのだ。夕焼は作者が彼らに与える誉れである。

  川波の音冷やかに故郷なる       永島 靖子

 年をとった後の故郷とはこんなものなのだろうと思う。故郷を離れてなんと永い時間が経ったことか。電車を降り、古びた街を抜けて、橋の上に立つ。もはや縁者も少ない故郷のよそよそしささながらに川の音も冷やかなのだが、なぜかその冷やかさが心地よい。故郷は故郷らしくという固定観念から自由に故郷を感じるならば、それはこの川の音のようなものなのだろうと納得する。

  蝗飛ぶ村に国策定まらず        吉長 道代

 統一地方選を控えて地方創生なる政策課題が強調されているが、公共事業や工場誘致で地方が栄える時代ではない。しかし、放っておけば地方はとめどなく人が減り続ける。「国策定まらず」とは、永田町や霞が関の喧しい議論をよそに、静かに衰退する地方の恨みを代弁したものか。ダムを作るの作らないので振り回された某町なども思い出される。

  満天の星貰ひたる案山子かな      小宮 光司

 擬人化はとかく印象が卑俗になりやすいところがあって、この句にもそうしたところがないわけではないのだが、むしろ多少の俗っぽさがなつかしさになっているところに惹かれる。「見上げたる」、「背負ひたる」、「よろこべる」などと置き換えてみると、「貰ひたる」のよさがわかる。作者の共感が言わせた言葉だと感じられるのだ。

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