今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  より高き山へ山寄る暮春かな      布施伊夜子

 幾重にも連なる山々の中心に気高く聳える主峰が見える。山が山へ寄るとは神話の国に暮らす人らしく雄渾な自然の人格化だ。人間社会の寓意と読めそうな気配もあるが、一句の調べはそんな連想を笑うように大らか。暮春の季語が私たち人間の営みとは尺度の異なる悠久の時間を暗示する。
 この句が鷹創刊五十周年記念大会に投句されたことも心憎い。「鷹」は更なる高峰でなければならぬ。そう連衆に呼びかける句でもあるのだ。

  感情のなかまで霧が山霧が       岩永 佐保

 山道を一人で歩いていて霧に巻かれた経験は私にもある。隈笹をかすかに鳴らして霧が流れて来たかと思うと、たちまち包み込まれて視界を失う。あの有無を言わさぬ速さがこの句には確かに書き留められている。声にならない声に鳥肌が立つ。霧そのものを描くのではなく、霧に襲われる心理を描くことによって、霧の本質を暴いた句だと言える。

  かりがねの棹の乱れて湖近し      美戸呂邦子

 空高くきれいに連なって飛ぶ雁の列がにわかに乱れ、湖に向けて下降を始めたのだ。一日の長旅に疲れた雁には今夜の塒を見出して先を争う気持ちが生まれるのだろう。雁の棹とは雁行の慣用表現だが、この句においては慣用表現に付きものの手垢を感じさせず、むしろ味がある。作者がカナダのオタワの人と知れば、森と湖の国の雄大な空間が茫々と広がるようでまたおもしろい。

  汗の手の静脈ぬつと動きけり      引間 智亮

 拳を握りしめると汗に光る手の甲で静脈がぬっと動いた。この「ぬっと」の擬態語に率直な力がある。何か自分の身体の一部ではない存在のように突き放して詠んでいるが、そこから鬱勃とした若者の意欲が湧き出るようだ。じっと見つめる作者の目にも汗が滲む。

  流星や夜を覚えて泣く赤子       折勝 家鴨

 生まれたばかりの赤子は視力がほとんどなく、明暗がぼんやり知覚できる程度らしい。もともと子宮の真っ暗闇から出て来たのだから闇を怖れる理由はない。それでもいつしか赤子は母親の姿も見えずに放置されてじりじり腹が減る夜というものの怖さを知る。そして乳が足りても夜泣きをする。
 この世に怖いものがあることを最初に知った瞬間を掲句は甦らせる。夜が夜らしくなくなった現代の私たちに、畏怖すべき夜の存在を思い出させてくれる。

  みんみんや遺品のミシン吾を嫌ふ    谷  良子

 私はミシンというものにはほとんど触れたことがないが、調子の良し悪し、あるいは相性の良し悪しといったものがあるのだろう。遺品の旧式と思しきミシンとなれば尚更に。
 この句、下五の「吾を嫌ふ」がおもしろい。母の遺品だろうか。母はやすやすと使っていたのに、私の言うことは聞かず、いまでも母の忠実な僕だという顔をしている。「これを使いこなすのはまだ早いのよ」、ふと懐かしい母の声も聞こえてくるようだ。

  葬儀社の急募広告油照         野田  修

 アルバイトを安くこき使ってきた反動で、企業が人集めに苦労している。大手牛丼チェーンからアルバイトが離反して店を開けなくなったのが話題になった。そんな世相がこの葬儀社にも及んだらしい。斎場だけでは済まない葬儀屋の仕事は映画「おくりびと」で広く知られた。人手がないと大変だという焦燥が炎天下の広告に表れている。

  雲の峰戦死の兄の葉書燃す       鳥海 壮六

 終戦から間もなく七十年になる。戦争の記憶は途切れることなく詩歌に刻み継がれてきた。しかし、戦後の歳月が人の一生の長さに近づくにつれて戦争詠も変化する。
 掲句はまさに戦後七十年が過ぎた現在の戦争詠のあり方を見せてくれる。戦死した兄が戦地から送った葉書を燃やす。それはおそらく両親の遺品から見つけたものではないか。捨てるに忍びなくて大事に仕舞っておいた。しかし、いずれ自分が死ねばこの葉書の切実さがわかる者はいない。ぞんざいに処分されるくらいなら、今自分が燃やしてやりたい。それが弟である自分の最後にできる供養だと思うのだ。

  五十音順に整列原爆忌         平山 南骨

 戦争を知る鳥海さんの句に対して、これは戦争を知らない世代の戦争詠である。氏名の五十音順に整列させられた具体的な場面は読者それぞれが想像すればよいだろう。個人個人の事情は消去され、不特定多数の中の一つの記号に置き換えられたような不安。その寄る辺なさが原爆の恐怖に通う。五十音順に氏名が整然と刻まれた原爆犠牲者の慰霊碑あたりからの発想かもしれない。七十年前の戦争を起点としながら、この句の射程は現代の世界に及んでいる。

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