今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  怖づ怖づと夏帯に句を書きしこと    星野 石雀

 高浜虚子に次の句がある。

  どかと解く夏帯に句を書けとこそ

 虚子の句は鎌倉の料理屋の実景である。酔った女中頭がその場で帯を解いて虚子の前に投げ出したのだ。大正九年作。虚子ならば苦笑しながら平然と筆を揮ったことだろう。
 石雀さんにも同じような場面があったのかどうか。掲句はむしろ石雀さんがさまざまな女性たちに向き合って成長してきた過程すべてを包含する自画像なのではないか。どこか自虐的な指向は漂わせながらも、老いて若き日の自分を慈しむ心情は隠れがたい。

  苺ミルク考へぬひと美しき       竹岡 一郎

 作者は考える人なのだ。社会のこと、人生のこと、家族のこと、俳句のこと、考えれば考えるほど世界は複雑で難しくなる。だからさらに考える。
  それに対して、目の前で苺ミルクを味わう女性は何も考えていない。考えぬ人に世界は単純で明快である。作者は考えぬ人を通して単純で明快な世界を目の当たりにする。「美しき」とはそうして知ったこの世の美しさでもあるのだ

  ペンギンの直立ながし敗戦日      岩永 佐保

 動物園の眩しい日差しの中でペンギンが直立している。何かを見晴るかすようなその姿が、敗戦を顧みる日本人に重なって見えたのだろう。塚本邦雄の次の一首は当然作者の頭の中にあったことだろう。

  日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも    塚本 邦雄

 日本人は結局日本を脱出することもなく、昭和二十年のその日を含めて七十回の敗戦日を立ち尽くしてきたのだ。

  蛍追ひ肘雫せるこの世かな       山田 喜美

  どうも実景というわけではなさそうだ。この句の「蛍追ひ肘雫せる」という描写は、幻想的、象徴的な魅力を放って「この世かな」の下五に対峙している。蛍は何ものかに恋い焦がれた魂そのものである。この世を抜け出してしまいそうな狂おしさがあるからこそ、「この世かな」の断定の切実さが生まれるのである。

  紫陽花や母に宛てたる文の嵩      横沢 哲彦

 文の嵩としたところがよい。大方の作者は文の数とするところだろう。それでも悪い句ではないが、文そのものは見えず、母に手紙を書いたという事柄だけが出る。文の嵩とすると手紙の束という具体的な物が見えてくる。例えば母の遺品に自分から母に宛てた手紙を見出したのだと思ってもよい。作者はその嵩に驚き、そんなに手紙を書いた自分、それを大事に仕舞っていた母を思う。嵩という具体性があってこそ母と子の情がリアルに伝わるのだ。

  まぼろしの父冬瓜にもどりけり     中岡 草人

 父に会うのは何年ぶり、いや何十年ぶりだろう。死別してからの日々を話して聞かせたいと思うのだが、思いがあふれるばかりで言葉にならない。それでもなつかしい気持ちは存分にふくらんだ。
  父のまぼろしが消えると一個の冬瓜が転がっている。草人さんは父を描いたのか、冬瓜を描いたのか。今となってはどちらでもよい。それほどこの句の父と冬瓜は分かちがたい。

  アルプスの高嶺に機影盆休       野尻 寿康

 作者の住む松本から見渡す北アルプスの山脈の上空を音もなく過ぎてゆく機影。秋を迎えてしんと澄み切った青空が目に沁みるようだ。盆休の季語がよい。その飛行機にも帰省客が大勢乗っていることだろう。シャープな構図がこの季語の新しい表情を見せてくれた。

  凭れたる人の熱さや梅雨の月      水元 遥香

 開けた窓から雨上がりの月の覗くアパートの部屋でも想像してみよう。無言のまま凭れかかってみた相手の体温がTシャツ越しに伝わる。描きようで暑苦しくもなる情景だが、「熱さ」と表現したことで相手の存在をまっすぐに受け入れている若さが伝わってきた。

  屋形船薄暑の岸を離れけり       中西 常夫

 薄暑の季語の使い方が心憎い。お台場あたりに繰り出す屋形船だろうか。船に乗り込む運河べりは肌がじっとりするように蒸していたのだが、船が岸を離れたとたんに涼しい風が吹き始める。薄暑を離れた一瞬を描くことで、薄暑を浮かび上がらせた。そこが心憎いのだ。

  山坂の卯の花肩にふれにけり      小川 春子

 ほのかな甘い香りがしてきそうな一句。自分の肩を出したことで描写に親しさが生まれた。白い花の散り零れる印象がこの句の残影として読者の脳裏を心地よく満たす。

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