今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  電脳が統べる世界に藷植える       引間 智亮

 大学生になった引間君は秩父から東京に出て日々新しい世界に遭遇してきたことだろう。それにしてもスマートフォンやパソコンのない生活はもはや考えられない。それは個人に限らず国家や企業も同じことだが、インターネットを司る巨大な電脳は目に触れることもない。便利さと引き換えに私たちは見えない電脳に支配されているのではないか。
 電脳が統べるこの世界に藷を植える。寓意的なこの行為は、この世界の成り立ちに対する引間君のマニフェストである。それが現実に何を意味するのかは、秩父の土を踏みしめて育った引間君の俳句作品が明らかにしていくことだろう。

  岩盤に蜥蜴岩盤息づける      岡本 雅洸

 色あざやかな瑠璃蜥蜴を想像しよう。炎天下の灼けた岩盤に這い出てぴたりと止まり、あたりを窺っている。
 蜥蜴と言えば、思い出すのは「われ蜥蜴を愛す」と前書のある山口誓子の連作だ。

  蜥蜴照り肺ひこひことひかり吸ふ    山口 誓子
  するすると岩をするすると地を蜥蜴

まるで蜥蜴になりきったような蜥蜴らしさ。誓子の句を知ってしまうと、いくら蜥蜴を見ても誓子の句のように見えて手が出なくなってしまう。
 雅洸さんの句は、蜥蜴ではなく岩盤を主役にしたところに発想の逆転がある。岩盤が息づいていると見たのは作者の直覚だが、その直覚を読者に納得させるにあたっては、するすると這い、ひこひこと呼吸する誓子の蜥蜴が一役買っているように思う。この蜥蜴を置いてこそ岩盤の密やかで深い息づかいが納得できるのだ。

  みしみしと湯灌すすみぬ青田風    辻内 京子

 開け放った座敷に青田から風が吹き込む。田舎の旧家なのだろう。そう言えば作者の故郷は有吉佐和子の『紀ノ川』の舞台に近い。蛙の声が聞こえるだけの静寂の中、死者の湯灌の儀が進められている。
 こういう場合、ことさら湯灌の次第を描写しても説明になるだけだ。この句の手柄は季語の青田風、そして「みしみしと」の擬音だけであとは一切の説明を排した潔さにある。納棺師の所作のたびに床がみしみし言う。親族は固唾を飲んでそれを見守っている。「みしみしと」はその場に聞こえる音であると同時に、何代にもわたる生死を見届けて来た家のつぶやきでもあるのだ。

  裏谷は風のみなもと粽結ふ       甲斐 正大

 集落の裏山に谷が深く切れ込んでいる。木々のさやぎとともにそこから風が吹き下ろす。風の「みなもと」と言ったことで谷の湿り気と涼気を孕んだ風であることが想像される。粽の笹は裏谷からもたらされたものなのではないか。先祖がして来た通りに今年も息災を願って粽を作る。

  粽結う死後の長さを思いつつ     宇多喜代子

 先の辻内さんの句と同じように、甲斐さんのこの句もまた、個人の死を越えて続いていく人の営みを表している。

  灯さねば話が遠し簟      中村みき子

 「誰(た)そ、彼」──誰だろう、あの人は。日が暮れると人の顔が見分け難くなる。それで夕暮時をたそがれ(古くは濁らず「たそかれ」)時と呼ぶ。また、逢魔が時とも呼ぶ。いずれにせよ、日が暮れるとこの世は混沌として幽明の境すらあやしくなる。  簟に座って話し込むうちに日が暮れた。何の話かは分からぬが、薄闇に包まれると話がどこかこの世ならぬ様子を帯びて身に添わない。慌てて灯を点け、相手の顔を見てほっとする。黄昏時の本情を実感をもって捉えた句である。

  葉桜や長き小説読み終はる     藤田沙奈恵

 俳句の成否は季語次第だとこの句を見てあらためて思う。そのくらい葉桜の配合がよい。冬木の頃から読み始め、花の季節を一心に読み進んで今ようやく読了した。主人公の人生が、小説を読み続けた季節の推移と重なる。葉桜を見上げる作者の心に小説の余韻が木漏れ日のようにゆらめく。

  じやがいもの花に雨来る手紙来る     芝崎芙美子

 芝崎さんは「鷹」創刊号から参加している数少ない同人の一人。中央例会に顔を見せることは叶わなくとも「鷹」への思いの深さは変わらないことだろう。「しだれつつこの世の花と咲きにけり 湘子」──その花が雀に食われないよう芝崎さんが毎日米粒を撒いてしだれ桜の盛りを湘子に見せたという逸話が思い出される。  次の句によく似ていることにふと気づいた。

  兵隊の街に雪降り手紙くる       片山 桃史  

 桃史は二度の出征を経て最後はニューギニアで戦死した。戦場にいても、片田舎の穏やかな日常にいても、そこにまだ自分が生きて在ることの証のように手紙が来る。同じ秩父の引間君の冒頭の作品と唱和するような句だと思われた。

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