今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  逝く人に大いなる闇白鳥座       亀山 歌子

 人の死を荘厳するのに、生まれ育った土地の真っ暗な闇にまさるものはあるまい。そう思わせる句である。都会ではそうはいくまいが、作者の住む高山であればまさしく大いなる闇を見上げることができよう。人は大いなる闇から生まれ、そして大いなる闇に還るのだ。
 下五に白鳥座を据えた展開が際やかである。白鳥座は天の川に大きく翼を広げる。その首星デネブ、鷲座の首星アルタイル、琴座の首星ベガを結んで「夏の大三角形」と呼ぶが、アルタイルは七夕の彦星、ベガは織姫だから、天の川ともども白鳥座も秋の星座としてよい。夜空の白鳥の姿は、銀河を越えて死者の魂が羽ばたき、飛び立つような幻想に私たちを誘う。都会の病院の蛍光灯の下で死ぬのに比べてなんと贅沢な往生かとうらやましく思う。

  小鳥来る小箱のやうなわが家かな    太田 明美

 住み慣れた家は、自分と家族そのもののように思われることもあるだろう。「小箱のやうな」という形容は、謙遜や卑下を装いながら、かけがえのない大事なものだという愛着を感じさせる。まるで小鳥たちが祝福に来たようだ。
 中央例会でこの句を採ったとき、私は一戸建の家だと思っていた。ところが、作者はマンション住まいらしい。呆気にとられたが、すぐにそれも悪くないと思い直した。マンションのわが家が抽斗のようにすっと引かれると、そこには自分と家族にだけ意味のある大切なものが、ジョゼフ・コーネルの箱の中身のようにきちんと並んでいる。そんな幻想をこの句に見る。むしろそう読むほうが新鮮なのだ。

  日盛や動物園は死を見せず       柳 克弘

 旭川市の旭山動物園が人気を集めたのは、動物それぞれの最もいきいきした生態を見せる展示の工夫による。しかし、いきいきと生きることだけが動物の生態ではない。病み、老い、やがて死ぬことも生き物として当然のこと。ところが動物園はけっして動物の死を見せない。
 人間の子供たちの夢をはぐくむために動物のいきいきした姿だけを見せる。動物の側から見れば、それは欺瞞であり、傲慢でもある。ぎらぎら照りつける太陽の下、掲句はそんなことを訴えているようだ。

  夫ほどは呑気に死ねず立葵       市川  葉

 夫は先々のことを憂うることもなく余程呑気に死んだらしい。それはひとえに妻である作者あってのこと。しっかり面倒を見てやったからこそ、我儘を言い放題で旅立つことができた。しかし、自分はそうは行かない。自分でけじめをつけて逝かないと、後の始末をしてくれる人はいない。子や孫に迷惑をかけるのは御免蒙る。
 しゃきっとしなけりゃいけないという思いが季語に表れている。夫を恨めしく思っているわけではもちろんない。むしろ呑気に死なせてやったことを作者は誇りに思っている。

  秋の夜や拍手に終るライブ盤      國吉 洋子

 例えばクラシックの演奏会のライブ盤。楽章の間には聴衆の咳がなまなましく聞こえ、演奏が終了すると大きな拍手が起こる。しかし、それは何十年も前の録音だったりする。時代も国も作者から遠い人々の感動が、今ここで秋の夜を一人過ごす孤独をあたたかく包み込む。

  月涼し少女の父の旅鞄         宮本 八奈

 少女と少女をめぐる家庭の事情をこの句は何も説明していない。不思議な句だ。描かれているのは父の旅鞄だけである。少女がそこにいるのかどうかさえ定かではない。父は帰って来たのか。あるいはこれから旅立つのか。それもわからない。ただ、少女の孤独だけが確かに感じられる。少女の孤独が少女を次第に大人にするのだ。涼しげな夏の月に少女に対する作者のやさしい眼差しを感じる。

  下宿屋に玄関ひとつ桃届く       半田 貴子

 私が大学生の頃には、本郷界隈にもこんな風情の下宿屋があった。玄関一つに各部屋の学生たちと大家一家が暮らす。どうやら一人の学生の郷里から旬の桃が届いたらしく、学生の帰りを待って玄関の脇に置かれている。学生の親は下宿屋への謝意も兼ねて送って来たのだろう。学生一人で食べきれる数ではない。賄付の下宿屋であれば、その夜はさっそく桃が剥かれて、夕食にふるまわれたことだろう。

  初雁や耳に憶えの草の径        中岡 草人

 草原の中の一筋の道。盲目の作者は草を擦って吹き渡る風の音に聞き覚えがあると感じた。いつのことだったか、ここは確かに通ったことがある。
 デジャヴュと言えば既視感のことだが、目が見えなければ他の感覚で同じ現象があってよい。風音にまじって初雁の声がほろろと落ちる。耳になつかしい響きだが、作者の聴覚はすさまじいまでに冴えわたっている。

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