今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  とほしろく宇宙暮れゆく蓮田かな    氣多 驚子

 万葉集の山部赤人の長歌に次の一節がある。

  明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし

 私は国語学に詳しくないが、「とほしろし」という言葉は橋本進吉の「とほしろし考」などそれだけで論文が書けるほどその意味について議論があるらしい。さしあたりは「遠白し」、つまり遠くまではっきりしており、それゆえ雄大なさまと理解しておけば掲句の解釈には足りるだろう。
 蓮田の上に広い夕空がある。一番星が光り始めたところだろうか。空の先は宇宙である。そう実感できるほど彼方まで曇りなく見えているのだ。だからこそ空が暮れるではなく宇宙が暮れるという力ずくの表現が納得できる。蓮田は仏教の世界観を連想させる。曼荼羅図のように世界の隅々まで隠れるものなく明澄なのである。

  竹夫人たまさか上になることも     加藤 静夫

 暑さで寝苦しい夜。涼をもとめて竹夫人を抱く。夢うつつに寝返りを繰り返すうち、ふと気づくと作者に抱かれたまま竹夫人が上になっている。それだけの至極地味な自画像である。だからこの句に生身の男女の営みを連想するのは読者の勝手だ。加藤さんは読者の勝手をそそのかすためにさまざまな自画像を真面目な顔で演じてみせる。

  目に入る汗だれよりもわれが好き       静夫

 竹夫人の句とこの句を併せ読むとよい。静夫俳句の世界の中心は、この「だれよりもわれが好き」にある。ただし、この句の「われ」さえ、加藤さん自身にとっては一つの演技なのかもしれない。

  蟻一匹ノートに迷ひ街にデモ      岡本 雅洸

 まさにモンタージュである。ソ連映画「戦艦ポチョムキン」で確立されたモンタージュの技法を俳句では二物衝撃とも呼ぶ。掲句の場合、上五中七が一つのカット、下五がもう一つのカット。脈絡のない二つのカットを並べることによって見る者に鮮烈なメッセージを伝える。
 すでに古典的と言ってよい技法だが、掲句に詠われている内容は今日の日本である。三・一一以後ある種の流行現象となった反原発のデモを思い出す。正義の名の下に人が集まれば集まるほど、それを疑うたった一人の良心は疎外される。ノートの上の一匹の蟻は私にそう訴えかけた。

  老境にちと入りけり白日傘       金丸 綾子

 人はいつ老境に入るのだろう。いつかは自らの老いを受け容れなければならない。嫌だと思って目をつぶってしまうと余計嫌になる。ならば潔く老境に入ったと言ってしまおう。掲句に表れた作者の心情はそんなところだろう。ただし、「ちと」である。照れと淋しさのまじった「ちと」。その心もちに白日傘がちょうどよく寄り添っている。

  薫風や妻と異なる降車駅        黒木 鳩典

 リタイヤ後の夫婦の小景と読んでみよう。作者が句会に出かけようとすると、妻もちょうど友達と約束があると言う。ならば一緒に出ようか。「晩飯までに帰るよ」とでも言って作者は先に電車を降り、妻を見送った。薫風がまだ始まったばかりの夫婦の余生を吹き抜けるようで心地よい。

  暁の白き輪郭秋に入る         西田 玲子

 俳句の描写は本来ものをなるべく具体的に出した方がよいのだが、この句はその逆を行って成功している。夜空がしらじらと明け始めた頃。暁光を帯びたものの輪郭だけがひややかに浮かび上がる。それが白いという感覚は確かに季節が秋に移ったことを知らしめる。

  あぢさゐの色づく前の夜風かな     山路 一夢

 欲のない句だ。感じたことを感じたまま技巧を弄さずに詠っている。欲のない句はつまらない句とは違う。この句は季節の微妙な移り変わりを感じさせる。もう初夏のすがすがしさはないが梅雨入りには間がある。そんな季節の夜風の肌触りがこの句には確かにある。

  漬物石かかへて百足見失ふ       三浦えみ子

 大きな百足が漬物石のあたりに逃げ込んだ。ここで取り逃がしては後が気がかり。エイッと漬物石を持ち上げるが、もうそこに百足の姿はない。漬物石を抱えたまま目を見張る作者が見えてくる。作者は笑っている場合ではない。だから読んでいるほうは可笑しい。ユーモアとはそういうものだ。

  いたつきの窓に風鈴夕映えぬ      山中  歩

 広島県の仲間が皆集まれるのであれば指導に行きたいという私の気持を山中さんは快く引き取って実現してくれた。今年三月のことである。現役で山に登る元気な人だっただけに突然の病で逝かれたことが信じられない。〈短夜や数多の電車聞き分ける〉に病床の作者の気持を推し量るのはつらい。掲句のやすらかさがせめてもの救いである。

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