今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  月読の蛙時雨となりにけり       松岡 恵子

 時雨には蝉時雨、虫時雨、木の葉時雨など見立ての時雨がある。実際に時雨が降っているわけではない。蝉の声やこおろぎの声を、あるいは木の葉の散るさまを、時雨に見立てたものである。しかし、掲句の蛙時雨というのは初めて聞く。おそらく作者の造語だろう。これがなかなかよい。
 月明かりの夜道を歩くとあちらこちらで蛙の声がする。近づくとはたりと止み、遠ざかるとまた鳴きだす。あのなつかしい寂しさは、やかましい蝉の合唱などよりよほど時雨らしい。そして、月を月読としたところにも唸らされる。万葉集の「月読の光に来ませ」の歌と遥かに響きあうようだ。言葉の芸を尽くして妙なる世界が開かれた一句である。

  紬織る里の花冷月夜かな        山脇 洋子

 月夜と言えば秋だが、秋以外にも朧月夜、卯の花月夜、雪月夜といった言い回しがある。この句の花冷月夜もこれらに倣った作者の造語だと思うが、凛とした詩情がある。「紬織る里」はなんだか観光パンフレットの宣伝文句のように常套的ながら、花冷月夜の詩情がその手垢を拭い去って、うっとりするほど美しい句になった。

  蕗をむく吾が声青き雨間(あまま)かな  沖  あき

 この句の雨間は作者の造語ではなく、万葉集にも用例のある歴とした大和言葉である。沖さんは大学で万葉集を研究したそうだから、詩嚢に大事にしまってあったのだろう。古い言葉も所を得て使ってやれば気持よさそうに息づく。
 朝から雨が降ったりやんだりの天気。蕗を剥く台所の窓にすっと日が差し込んだ。宅配便でも来たのか、折しも呼鈴が鳴る。「ちょっと手が離せないの」と夫を呼ぶ声が、静かな家に自分でも驚くほどよく響いた。

  西日との押問答や四畳半        奥坂 まや

 四畳半という言葉には饐えた汗の滲みついたような独特の匂いがある。
 〈私は尼崎の四畳半のアパートで、モツを串に刺し続けた。向いの女は背中一面に迦陵頻伽の刺青があった。ある日、女は私の扉を開けた〉──掲句には、例えば車谷長吉の小説『赤目四十八瀧心中未遂』の主人公の棲みつくアパートの四畳半が似合いそうだ。冷房などあるはずもなく、風も通らない。容赦ない西日に耐える暮らしを「押問答」とはいかにも奥坂さんらしい措辞の迫力がある。

  夾竹桃俺には砂が詰まつてゐる        まや

 四畳半を出て男は重い歩を進める。この句に作り物ではない真情がにじんでいるのは、堕ちつくした「俺」に対する作者のある種の羨望ゆえか。

  巻鮓の端つこたのし後生楽       小川 舟治

 巻鮓を切り分けた端っこである。中途半端に詰まった鮓めしからかんぴょうなどがはみ出している、思いのほか具が多く得した気分になったりして、成程あの端っこは楽しい。あれはおまけの楽しさである。下五の後生楽がうまい展開だ。余生もまたおまけの楽しさだと言わんばかり。

  晩春の雲に乗りたし縋りたし      夕雨音瑞華

 「晩春の雲に乗りたし」まではありふれた陳腐な思いつきなのである。ところが、下五の「縋りたし」で意表を突かれる。乗りたしと言って乗れるものでもない。それでも縋りつきたい。この切羽詰まった踏み込みかたはこの作者らしい持ち味だと感じた。この句の「晩春の雲」を例えば「幸せ」と置き換えてみれば、それがよくわかるだろう。

  ふるさとの風若がへる田植かな     南 十二国

 田植が進み、見渡す限り幼い苗が風にそよぐ。その風が若々しいという程度の発想は誰でもできるだろうけれど、若返るとなるとそこに作者独特の世界観が現れる。その違いは大きいのだ。
 四月号のこの欄で南君の次の作品を取り上げた。

  死ぬるは死に眠るは眠り山に雪       十二国

 今月の句はちょうどこれを裏返したような内容である。四季の巡るわが国では自然は毎年深い眠りに入り、やがてまた蘇生する。他方、人間はけっして若返ることはない。だからこそ、若返ることのできる自然がまぶしいのだ。

  桜湯や日はにこにこと海に落つ     佐々木幸子

 東日本大震災当時、佐々木さんは鷹宮城支部の支部長だった。テレビが惨禍の映像を繰返し流す一方で、被災地の会員には連絡がとれない。地震から六日後に佐々木さんからメールが届いて榊原伊美さんや渡辺柊子さんの無事を知ったときどれほど安堵したことか。
 掲句には津波をよこした海への恨みはない。むしろ、今日いちにちを無事終えることへの感謝の気持に満たされている。佐々木さんの突然の訃報に驚いている。深く安らかに眠られんことを祈る。

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