今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  掌に父の面影蓬餅           遠藤 篁芽

 自分の掌に亡き父の掌の面影を見た。晩年の父の掌であろう。作者の老境深まるにつれ、自分の掌が目に焼きついた父の掌そっくりになってきたのだ。
 この句の味わいはそこに蓬餅を配したこと。他にもきっかけはありそうなものなのに、蓬餅を掌に載せた拍子に父の掌の面影が立ったのだ。
 そう言えば、遠藤さんには数年前こんな句があった。

  柏餅ならば大きな掌を出せり         篁芽

 父も甘いものに目がなかったか。父もまた大きな掌の持ち主であったことだろう。

  口にしてつめたき嘘や春の星      `島 啓介

 嘘という言葉のイメージとは逆に不思議と清潔な印象の残る句である。この嘘は恋人に向けられたものだろうか。嘘だから冷たいという理屈でこの句を味わうべきではない。春の星空のようにその嘘そのものがひんやりとしているのだ。この句にはなぜか嘘をついた後ろめたさがない。むしろナルシスティックな陶酔がある。それもまた若さというものか。

  連翹や妻へそくりを子に渡す      羽藤 雄二

 中央例会の投句は、「連翹や妻へそくりを子に貢ぐ」だった。おもしろい材料だとは思ったが、「貢ぐ」では俗で塗り固めたようで採れない。俗っぽい材料は俗っぽく詠まないほうがよい。「使ふ」くらいでちょうどよいのではないかと思ったが、作者が考えるだろうから言わなかった。
 はたして今度の投句は、「連翹や妻へそくりを子に送る」となっていた。俗っぽさは抑えられたが、今一つ迫力に欠ける。掲出の形は私が添削して「渡す」にしたものである。そのほうが一つの場面が現れるのではないか。連翹越しに妻と子を盗み見る作者も見えてこよう。どれが正解というものではない。私の添削がベストだとも限らない。ただ、言葉一つで印象が大きく変わることを知ってほしいのである。
 添削されては百パーセント自作とは言い難いなどと思う必要はない。添削に納得できれば、それが作者自身の作品なのである。逆に納得がいかなかったならば、将来句集に収めるときに好きに直してもらってよい。

  花冷や黙に耘(くさぎ)る防護服     山内 基成

 動詞で生きた句である。「耘る」とは田畑の雑草を除き去ること。夏の草刈りではない。原発事故のあと放置された田畑に生い茂った藪を払うのである。桜が咲いても村人の暮らしは戻らない。この田畑もまた使えるのかどうか見通しが立たない。そんな徒労感が沈黙ににじむ。「黙に草刈る」ではけっして得られない力が掲句にはある。

  トラックに子牛上げたる南風かな    辻 和香子

 この句も動詞の選択がよい。乗ったとか載せたとかというのでは平凡になるところだが、「上げたる」でいきいきした描写になった。トラックの荷台に板でも渡して子牛を登らせる。子牛は不安そうに抗う。やっと荷台に乗ってくれたとき、汗の浮いた額にさっと南風が吹いた。


  猟期終ふ一枚岩の噴気孔       佐藤 祥子
  岨走るかもしかはもう夏毛なり     河原 朝子

 どちらも材料が新鮮である。自然を身近に暮らす人の目が働いている。俳句らしい素材を探すのではなく、自分自身の見たものを俳句にしてやろうという意欲が伝わる。
 佐藤さんの句は例えば安達太良山にでもありそうな景色である。硫黄がレモン色に結晶した一枚岩の亀裂から水蒸気がほとばしる。河原さんの句は毎年目にするからわかる羚羊の変化に季節の訪れを感じ取っている。

  チューリップ破顔一笑して散りぬ    白川  良

 花の散りぎわにはそれぞれの風情がある。破顔一笑はいかにもチューリップの散りぎわらしい。対象の本質を突いた擬人法だと言ってよかろう。そしてこの句にはどこか人間の散りぎわにも通じるところがある。人生このような散り方も愉快ではないか。まさに破顔一笑の句。破顔一笑は湘子先生が晩年自らの作句の指針としていた言葉である。

  春暁の鳧鳴きわたる寝覚かな      荒木かず枝

 鳧の鳴き声はけっして美しいとは言えないが哀愁がある。男との共寝であろうと一人寝であろうと春暁の寝覚は恋の場面を連想させよう。その恋情を鳧の声が急き立てるのだ。水辺の情景であることもおのずと想像される。鳧がつくという成語もあるせいか、恋の終わりを予感させる切なさが残る。

  初夏の花屋ひんやりしてゐたり     岡田 文子

 たしかにこれは初夏だと感心する。表通りはまぶしい日差しが降り注いでいるが、花屋に一歩入ると空気がひんやりしている。並んでいる花も初夏らしく白いものが多いようだ。肌で感じた初夏がいかにも素直に一句になっている。

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