今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  狐火や文字なき言葉野を走る      小泉 博夫

 大陸から伝わった漢字を用いて書き表すことができるようになるまで、わが国の言葉には文字がなかった。文字ばかりではない。稲作も暦法も律令制度も大陸から伝わったものである。それらのおかげで日本は文化を形にし、国家としての体裁をととのえていったのだ。
 掲句の「文字なき言葉」とはそうした黎明を迎える前の私たちの祖先が交わした文字を持たぬ言葉であろう。狐火の立つ深い闇に目を凝らすうちに、作者はその声を確かに聞きとめたのだ。それを幻想と呼ぶべきではないだろう。作者の精神は覚めている。狐火という季語、いかにも作り物だと見え透いた幻想を押し付けるような句が多いのだけれど、この句は闇に研ぎ澄まされた精神による中七下五の覚めた認識が、狐火をさえざえと具象化するのである。

  死者の手に触るる生者のつめたき手   上村 慶次

 死者は冷たいものという常識をひっくり返してなまなましいリアリティを得た句である。臨終間もない死者であろう。その手を握る生者の手は長い看取りの疲れと悲しみで冷え切っている。ほのあたたかい死者の手よりよほど冷たいのである。その冷たい手がすがりつくように死者の手をむ。
 死者の手と生者の手だけに絞り込んだ筆致が冴えている。こうして見ると、死者の側にあることと生者の側にあることの境目にどういう意味があるのかわからなくなってくる。死というものを、漠然とした畏怖や忌避ではなく、もっと具体的に見つめていないと出て来ない発想だと感じる。

  死にますといふ死顔やあたたかし    新宮 里栲

 上村さんの句とは一転して、このあっけらかんとした句の描くものもまた死者らしいと言えば死者らしい。ひとたび死んでしまうと、人はあっけないほど死顔らしい死顔を見せる。私は死にますと言っているようだというのはなるほどと思う。もちろんこの死が作者にとって余裕をもって向き合えるものだからではある。季語もあっけらかんとしている。

  恵方巻かぶりつけよと言はれても    岡本  泉

 節分に食べる太巻を恵方巻と称する。十年前の東京では知られていなかったものだ。私は当時家族とともに関西に引っ越して初めてこの習俗を知った。もともとは大阪の海苔業者が販促のために考えらしい。恵方の方角に捧げてまるかじりする。一本食べ終えるまで口を利いてはいけないなどと約束事がある。大阪はへんなところだと家族でおもしろがったものだが、三年経って東京に戻ると東京にも広まっていた。大手コンビニが関西の商法を関東に持ち込んだのである。
 恵方巻を季語と認めるべきかどうか。バレンタインデーが季語になったのだから似たようなものだとも言えるが業者の商魂におもねるようで釈然としない。そのような胡散臭い存在に対して掲句は実に痛快だ。そんな行儀の悪いこと私はできないわといなすようにして、この季語モドキのいかがわしさをチクリと突いているのである。


  何するとしもなく更けぬ雛の前     小川 和恵
  水仙に昧爽の波高からず        秋山 雅子

 文語の美しい響きがあれば内容など然したるものがなくてかまわない。この二句を読んでそう思う。

  いとほしや
  いま春の日のまひるどき
  あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

 これは萩原朔太郎の詩「桜」の一節。拙著『俳句は魅了する詩型』でも紹介したが、山本夏彦はこの最後の行について、「これを口語文にしてみれば分る。ただ冗漫になるのみである。ここにあるのは文語文の妙である」と言っている。
 この評言は小川さんの掲句にそのまま当てはまるだろう。そして、小川さんの句の大和言葉に対して、秋山さんの句の文語は漢語の響きが利いている。大和言葉と漢語が両輪となって美しい文語を形づくるのである。

  文机に寄れば余寒の膝がしら      磯ア 青泉

 この句も文語のよろしさとして挙げておこう。内容はなんということもないが、声にして読めばそのよさがわかる。

  巻貝を耳にあつるや致命祭       坂巻 恭子

 致命祭の二月五日は豊臣秀吉の禁教令に触れて宣教師と信徒二十六人が長崎で処刑された日。この難しい季語に心を寄せて掲句は気負いがない。上五中七の甘く常識的なフレーズは、この季語との取り合わせだからこそ生きたものだ。

  春灯まつすぐ夫に帰りけり       甲斐 有海

 こうもまっすぐに詠まれるとすがすがしささえ覚える。それが私の生活だとてらいなく言えるのがうらやましいほどだ。「夫へ」ではなく「夫に」であるところに注目したい。よく吟味された助詞だと思う。この春灯は帰り道の街の灯りではなく、夫を照らすわが家の灯りなのである。

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