今月の鷹誌から秀句の風景


  秀句の風景                小川軽舟

  死ぬるは死に眠るは眠り山に雪     南 十二国

 冬がやって来る。冬を越せずに死ぬべき生き物は死に、冬眠して春を待つべき生き物は眠りにつく。そして山には静かに雪が降り積もる。自然界に棲む生き物たちが冬を迎えることの厳粛さにまず胸を打たれる。
 死ぬのは気の毒だというのは人間の考えることである。死ぬのも眠るのも種(しゅ)の保存のための方法論の違いに過ぎない。卵や種子を残して次の世代の再生を期する種もあれば、冬眠の間に子を産み育てる種もある。それぞれの種のDNAが目指すは種の保存なのであって、個体の生死にとらわれるのは人間の感傷にすぎない。
 この句はそのことを発見した句だと言ってよい。死ぬことと眠ることに本質的な違いはない。どちらも等しくおごそかであり、そして安らかなのである。

  供へおく妻への年賀状の束       景山 而遊

 亡くなった配偶者に年賀状が来たという材料は俳句ではめずらしくはないが、この句は少し違う。それは年賀状が束であることが物語っている。妻は歳晩に亡くなり、喪中の欠礼葉書が間に合わなかったのだ。年賀状はどれも何もなかったように新年を寿ぎ、死者に語りかける。そのことがかえって作者に妻の不在を思い知らせるのである。
 それでも作者は気を取り直す。妻はこれほど多くの人たちの厚情に包まれて生きていたのだ。感謝の気持ちを妻と分かち合うべく、年賀状の束は静かに霊前に置かれたのである。

  トラックが青年拾ふ冬夕焼       西山 純子

 ヒッチハイクの場面と見るのが自然かもしれないが、私は現代の労働の現場を描いたものだと読んでみたい。朝日とともに道路工事か何かの現場に運ばれた青年は、弁当一つで一日働き、夕方迎えに来たトラックに送られてその日の報酬を得る。自分一人が食うには困らないが、家庭を築く生活の展望はない。そんな境遇の若者は少なくないだろう。
 それでも青年は悲観もしない。たっぶり身体を動かした満足感とともに冬の夕焼を眺める。作者もまた、その生き方の是非を安易に口にしたりはしない。作者にしてやれるのは、その現実を見守り、言葉にしてやることだけなのだ。

  紅顔の日雇群るる焚火かな       山内 基成

 山内さんのこの句は、より直截に就職難の若者たちを描く。屈託のない紅顔を焚火に輝かせている自分の息子のような青年たちを作者はどんな思いで見つめているのか。山内さんは世代間格差のいわゆる「勝ち逃げ」組に属するが、それはいったい何に勝ったということなのだろうか。

  日時計の淡き時間や寒雀        田上比呂美

 真夏の太陽の下であれば、日時計の針はくっきりと濃い影で時間を示す。ところが今は、冬の薄日に力なく淡い影を落とすのみ。淡いのは影だが、そうして示された時間そのものも淡く感じられたのだ。しかし、淡いからといってそれは薄っぺらではない。雀に心を遊ばせる作者の無為の時間が心地よく詠みとめられていると感じる。

  春野ゆく老いたる父の背にすがり    桃井  薫

 身体の自由の効かない桃井さんの句には心の中の自由に遊ぶ空想的な材料が多いが、この句は自らの境遇を正面から見据えて胸を衝かれる。それでも桃井さんらしい空想は働いている。父に車椅子を押されはしても、その背にすがって春野を行くことは現実にはないのではないか。作者の思いを素直に映しているがゆえに、その空想の光景は美しい。

  姿ある鬼あわれなり鬼やらい      野中 旅好

 鬼とは本来は姿の見えないものへの畏怖の念だったに違いない。その禍を避けたい人間の願望に宗教が応えて鬼に姿が与えられる。しかし、姿が見えてはもう本来の鬼ではないのだ。豆を打たれる鬼を見て、そんな鬼のありさまを憐れに思ったのがこの句。あわれではあるが、この句の鬼には温もりがある。それは結局人間の温もりなのだ。

  春炬燵伊予の人なる新妻と       江連 若菜

 伊予の人と特定したことが利いていると思う。なぜなのだろう。伊予と言われて思い出すのはまず蜜柑。そして暖かな気候と明るい人柄。この炬燵には新妻の実家から送られてきた蜜柑が載っていそうである。柳編集長への祝意を含んだ一句だと思うが、この伊予が動かないと気づいた作者はなかなかしたたかである。

  七草や一人息子の子だくさん      上山 育美

 少子高齢化の現実の中でこの句には気持ちが明るくなる。自分は一人息子しか残せなかったのに、その一人息子は元気な嫁を迎えて今どきめずらしい子だくさん。「せり、なずな、すずな、すずしろ……」、七草の名を唱えるように孫の名が響いていそうだ。こんな孫の句なら歓迎である。

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